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タルガ・フローリオ()は、1906年から1977年にかけてイタリアシチリア島で行われた公道自動車レースである。国際的なスポーツカーレース大会としては最も歴史が古く、2度の中断期間を挟んで計61回開催された。 == 歴史 == タルガはイタリア語で「盾」を意味し、タルガ・フローリオとは大会後援者のフローリオ家から優勝者に贈られた「フローリオ牌」のことを指す。ル・マン24時間レース(1923年 - )、ミッレミリア(1927年 - 1957年)と並ぶスポーツカーレースのクラシックイベントであり、曲がりくねった峠道を走る過酷なレースとして人気を博した。 フローリオ家はマルサラワインの製造をはじめ、海運業、タバコ専売などで財をなしたシチリア島の富豪一族である。子息ヴィンチェンツォ・フローリオは自動車レース愛好家としても知られ、1905年にブレシアで行われたレースにコッパ・フローリオ(フローリオ杯)を寄贈した〔コッパ・フローリオは12回開催され、うち6回はタルガ・フローリオと同時開催された。〕。さらに地元でのレース開催を思い立ち、運営委員会を設立し、自らが優勝したタルガ・リンニャーノ(1902年)にちなんでタルガ・フローリオと命名した。1906年の第1回大会には10台が参加し5台が完走。賞金総額は5万リラ、優勝者には3万リラと記念楯が贈られた。初期の参加資格は「過去に10台以上生産された乗用車」だったが、やがてスポーツカーの参加も認められるようになった。 第一次世界大戦のため1915年から1918年まで中断し、再開した第10回(1919年)では初めて国外勢のプジョーが優勝した。1920年代にはグランプリマシンが参戦するようになり、ブガッティが第16回(1925年)から第20回(1929年)まで5連覇、アルファロメオが第22回(1930年)から第26回(1935年)まで6連覇、マセラティが第28回(1937年)から第31回(1940年)まで4連覇した。その後、第二次世界大戦のため1941年から1948年まで再び中断した。 1950年代後半からはスポーツカー世界選手権の1戦に組み込まれ、フェラーリ、ポルシェ、アルファロメオなどのワークスマシンがしのぎを削った。ポルシェは第50回(1966年)から第54回(1970年)まで5連覇し、通算ではメーカー最多の11勝を挙げた。最盛期の1970年前後には60万人の観客が沿道で声援を送った。 しかし、高性能のプロトタイプカーが狭い公道を走るにつれ危険性は高まり、1973年を最後にスポーツカー世界選手権から外れることになる。ワークスチームが去ったあとはイタリア国内選手権として継続されたが、第61回(1977年)にオゼッラのマシンがコースオフし、観客2名が死亡、2名が重症という大事故が起きる。ミッレ・ミリアと同様に、タルガ・フローリオも死傷事故により歴史にピリオドが打たれた〔61回の歴史を通じてドライバーの死亡事故は1925年の1件のみだった。〕。1978年以降はイタリア国内ラリー選手権のラリー・タルガ・フローリオ(Rally Targa Florio)として名を残している。 また、ニューファンドランド島のタルガ・ニューファンドランド(Targa Newfoundland)、ニュージーランドのタルガ・ニュージーランド(Targa New Zealand)、オーストラリアのタルガ・タスマニア(Targa Tasmania)など、タルガ・フローリオの名にちなんだイベントが行われている。日本でも1988年から数回淡路島で「淡路タルガ・フローリオ」が行われた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「タルガ・フローリオ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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