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ダド・プルショ(Miladin "Dado" PRŠO, 1974年11月5日 - )は、クロアチア、ザダル出身の元サッカー選手。ポジションはフォワード。 ==経歴== ユーゴスラビアのザダル(現在はクロアチア領)に生まれる。地元クラブ、NKザダルのユースチームでプレーしていたところを国内の名門ハイデュク・スプリトのユース組織に引き抜かれた。当時のチームメイトにはミラン・ラパイッチがいた(二人は現在まで続く親友同士である)。しかし身体検査で異常が見つかり、スプリトを追われてしまう。1992年、同じクロアチアリーグ1部のクラブであるNKパジンカの下部組織に入団。当時は守備的ミッドフィールダーとしてプレーしていたが、ここで前線の選手としてコンバートされ頭角を現した。しかし国内の政情不安や同クラブの待遇の悪さから、キャリアアップを求め単身フランスへと渡る。そしてフランスリーグ2部に所属していたFCルーアンのテストに合格し入団したものの、監督の信頼を得られずに出場機会を得られなくなっていった。夜遊びに更け、一時はサッカーを辞めることを本気で考えるまでに腐ってしまったという。 しかしその後のちに妻となる恋人の支えもあり、フランスの4部リーグに所属していたコート・ダジュール地方の小クラブスタッド・ラファエルに移籍し、再びサッカーに打ち込み始める。自動車機械工として働きながらの兼業プレーヤーであったが、サン・ラファエルをしばしば練習試合の相手としていたクラブがリーグ・アンの強豪、ASモナコであったことがプルショの運命を変えることとなる。地域リーグで眠っていた大型フォワードに目を付けたモナコのジャン・ティガナ監督(当時)はプルショに移籍を打診。1996年、23歳でモナコに移籍した。 しかしリーグ屈指の攻撃陣を誇った当時のモナコではプルショの出番はなかなか無く、1997年にコルシカ島のクラブで当時3部に所属していたACアジャクシオにレンタル移籍。ここで彼は目覚ましい活躍を見せ、2シーズンを経てモナコに復帰。スーパーサブとして徐々に存在感を高める。しかし以前から痛めていた左膝の状態が悪化し、2001-2002シーズン途中に手術を選択。9ヶ月近い長期離脱を余儀なくされたが、復帰後は気鋭の監督・ディディエ・デシャンの信頼の下、シャバニ・ノンダやリュドヴィク・ジュリらと強力な攻撃ユニットを形成し完全にブレイクを果たした。 フランスで実績を築き始めたプルショにクロアチア代表としての招集が舞い込んだのは2003年のことである。国際経験に乏しい、28歳の無名のプレーヤーを招集することに対し疑問の声も挙がったが、彼は自らが代表に相応しいプレーヤーである事を代表デビュー戦で証明する。2003年3月29日、EURO2004予選・対ベルギー戦に先発出場したプルショはいきなりゴールを挙げ、不振に喘いでいた代表チームに遅咲きの花を咲かせた。プルショはその後のEURO2004出場権を懸けたスロベニアとのプレーオフでも決勝ゴールを挙げ、代表チームをEURO本戦出場に導いた。本戦はフランス・イングランドと同組に回ったこともあってかグループリーグ敗退に終わったが、プルショはフランス戦で1得点を挙げ自身初出場の国際大会に足跡を記した。 その後はクラブレベルでも順調にキャリアを過ごし、2003-2004シーズンはUEFAチャンピオンズリーグに出場。グループリーグの対デポルティボ・ラ・コルーニャ戦で4点を決めるなど獅子奮迅の活躍を見せ、モナコをチャンピオンズリーグ準優勝に導いた。シーズン終了後はスコティッシュ・プレミアリーグの名門、レンジャーズに移籍。スペイン人ストライカー、ナチョ・ノボとのコンビでリーグタイトル奪取にも貢献した。 2006年には代表不動のフォワードとして、念願のワールドカップドイツ大会にも出場を果たす。しかし左膝に抱えるケガの影響もあってか期待に応えるパフォーマンスを披露できず無得点に終わり、チームもグループリーグ敗退。大会終了後、程なくして膝のケガを理由に代表を引退した。 2007年3月、膝の具合が思わしくないことから同シーズン限りでのレンジャーズ退団を表明。比較的プレッシャーの少ない環境でプレーできる道を模索していたが、結局現役引退となった。 現在、従弟のミラン・プルショがレッドスター・ベオグラードの下部組織に所属し、U-17セルビア代表にも選ばれている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ダド・プルショ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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