翻訳と辞書
Words near each other
・ ダビド・フェレール
・ ダビド・フステル
・ ダビド・プリエト
・ ダビド・プリエト・ガルベス
・ ダビド・ベリオン
・ ダビド・ベレンゲル
・ ダビド・ボダベリ
・ ダビド・ポラコ
・ ダビド・マテオス
・ ダビド・マテオス・ラマリョ
ダビド・ムジリ
・ ダビド・メンデス・ダ・シルバ
・ ダビド・ヤロリム
・ ダビド・ルイス
・ ダビド・ルドマン
・ ダビド・ロゼフナル
・ ダビド・ロゼーナル
・ ダビド・ロチェラ
・ ダビド・ロドリゲス
・ ダビド・ロドリゲス・サンチェス


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

ダビド・ムジリ : ウィキペディア日本語版
ダビド・ムジリ

ダビド・ムジリ(、1978年1月2日 - )は、グルジア (現国名 : ジョージア)・トビリシ出身の元サッカー選手。ポジションはミッドフィールダー
== 来歴 ==
父親のは1970/80年代ソ連リーグFCディナモ・トビリシ黄金期のメンバーでDFとして活躍した。
1995年に、グルジアのFCディナモ・トビリシにおいて17歳でプロデビュー。1997/98シーズンのリーグ優勝に貢献。1998年に初めてグルジア代表に選出、年代別代表ではキャプテン〔 を務めた。カハ・カラーゼは同い年であり当時の代表およびディナモのチームメイトであった。
1999年、ディナモは混迷を極め自身も出場機会が得られなくなった〔。五輪代表でキャプテンを務めていたムジリはナーバスになり出場機会を求めて〔、、モルドバFCシェリフ・ティラスポリへ移籍する。2000/01シーズンにはモルドバリーグ優勝に貢献、自身も得点王を獲得した。
2001年から在籍したオーストリアSKシュトゥルム・グラーツでは、イビチャ・オシムミハイロ・ペトロヴィッチ らの下で主力として活躍し、グルジア代表にも定着。
2006年からロシアクリリヤ・ソヴェトフ・サマーラでプレーする。2007年はクリリヤ・ソヴェトフでチームキャプテンを務めた。2008年1月30日にFCロコモティフ・モスクワが3年契約での移籍を発表、この際ロコモティフが契約切れによる移籍金ゼロでの移籍を狙ったが、クリリヤ・ソヴェトフとは1月末契約で事前通告がなかったことから、選手登録をめぐってトラブルが発生した。2009年末、稼働率の悪いムジリに対しロコモティフ側は一方的に解雇、これに怒ったムジリはロコモティフを訴えた。
2010年に古巣のディナモ・トビリシに復帰したが、シーズン途中に半年で退団。フリーになっていたところを、グラーツ時代の恩師・ペトロヴィッチが率いるサンフレッチェ広島からの誘いを受け来日〔。キャンプでのトライアルを経て〔、2011年シーズン開幕直前の2月に1年間の正式契約を結んだ〔。グルジア国籍の選手としては初のJリーガーとなる。運動量が少ない中、抜群のテクニックを発揮し数度の決勝点を挙げるなど殆どの試合に出場した。その活躍ぶりは、広島サポータから「四畳半の男」と称され、常にサポーターへの感謝を口にする人柄も含め、短期間の在籍ながらも愛される存在であった。同年末、広島の経営難を理由に構想外となった。
2012年、グルジアリーグで首位を走るFCゼスタポニに完全移籍し、同年度のリーグ優勝に貢献した。翌2012-13シーズンも在籍していたが、シーズン途中にUEFAチャンピオンズリーグ 2012-13での早期敗退やリーグ戦での不調により監督が次々と変わる中で、2012年9月からZaza Zamtaradzeとの二頭体制の形で監督に就任したものの同年12月に解任された。


抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ダビド・ムジリ」の詳細全文を読む



スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.