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ダライ・ラマ8世ジャムペル・ギャツォ(チベット文字:བྱམས་སྤེལ་རྒྱ་མཚོ、1758年 - 1804年)は、チベット仏教ゲルク派の有力な化身系譜であるダライ・ラマの8代目として認定された人物である。名はジャムペーギャムツォ、ジャムペル・ギャムツォ、ジャンペル・ギャンツォとも表記される。1762年から1804年まで、ダライ・ラマ7世の下で成立した第二次ダライラマ政権の首長の座にあった。 == 出生 == 1758年、チベット南西部ツァン地方トプゲルのラリカンに生まれた〔「歴代ダライ・ラマ法王」ダライ・ラマ法王日本代表部事務所 〕。父親のスーナム・ダルギェと母親のプンツォク・ワンモは、もともとチベット東部カム地方の人で、口承物語「ケサル王伝」に登場するチベットの伝説的英雄の一人、ダラ・ツェギャルの末裔とされている〔。 母親のブンツォク・ワンモがダライ・ラマ8世となる子を懐妊して間もなく、ラリカンの地は大豊作となり、1本のオオムギに3本から5本もの穂がついたと伝わるが、これは前代未聞のことであった〔。また、母親とその親類が庭で食事をしていると、巨大な虹が現われ、その弓形の一端が母親の肩にかかったという逸話も伝承されていて、これは聖者の誕生を告げる吉兆であるのだという〔。 誕生して間もなく、その子は微笑しながらしきりに天を仰ぎ、蓮華座を組んで瞑想の姿勢をとるようになった〔。その子のことを伝え聞いたパンチェン・ラマ6世(または3世)ロサン・ペンデン・イェシェーは、この子がまぎれなくダライ・ラマ7世の転生者であると語った〔。 == 成長と即位・受戒 == 幼いジャムペル・ギャツォが会話できるようになるとすぐ「3歳になったらラサに行く」と周囲に語ったと言われている〔。ラサはダライラマ政権の首都でチベット仏教の聖地であった。次第にチベット全体が、この子を正統なダライ・ラマ8世であると確信するようになった〔。ダルクパ・タイェは、多数の僧侶を伴ってラサを訪れ、当時2歳であったその子をシガツェのタシルンポ寺に連れて行き、認定式を執り行った〔。セラ寺・ガンデン寺・デプン寺の代表および国の神託僧(クテン)によって認定がなされ、タシルンポ寺にあったパンチェン・ラマ6世は、その子に「ロサン・テンペー・ワンチュク・ジャムペル・ギャムツォ」の法名を正式に授けた〔〔デエ 2005, pp. 166-178.〕。 1762年、4歳となったジャムペル・ギャツォは臣下とともにラサに往き、ポタラ宮で正式にダライ・ラマ8世として即位した〔。即位式を主催したのは、ダライ・ラマ7世没後に新たに設けられた名代職(ギェルツァプ)に任命されたテンギューリン寺のテモ活仏ジャムペル・デレクであった〔。1765年、ジャムペル・ギャツォ少年はパンチェン・ラマ6世から沙弥戒を受け、1777年に満19歳で具足戒を受けた〔。 ダライ・ラマ8世が幼少の間、政治情勢は比較的穏やかであった〔。清の乾隆帝は1750年代後半にイリ地方を本拠とするジュンガル部を大破し、タリム盆地の征服の乗り出したためチベットへの監視を強めることはなかった〔。また、モンゴル人の脅威も遠のいたので、乾隆帝は摂政の任命やダライ・ラマ認定もこころよく承認した〔。清から派遣された駐蔵大臣(アンバン)の官吏としての生活も快適なものであった〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ダライ・ラマ8世」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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