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チェサピーク湾の海戦(チェサピークわんのかいせん、、またはバージニア岬の海戦、、あるいは単に岬の海戦、)は、アメリカ独立戦争中の1781年9月5日、チェサピーク湾口の近くで、海軍少将トーマス・グレイブス卿率いるグレートブリテン王国(イギリス)と、同じく海軍少将グラス伯フランソワ・ド・グラス率いるフランス王国の間で戦われた海戦である。この海戦は戦術的には引き分けたが、戦略的にはイギリス海軍の手痛い敗北に終わった。イギリス海軍としては1588年にスペイン無敵艦隊を破ってから第二次世界大戦までのほぼ400年間で最も重大な敗北だった。 フランス艦隊の勝利によって、バージニアのヨークタウンに駐屯していたチャールズ・コーンウォリス将軍の部隊に増援を送るというイギリス海軍の任務が果たせなくなった。またジョージ・ワシントン軍がニューヨークからチェサピーク湾を通って軍隊や物資を運ぶのを妨害することもできなかった。その結果はヨークタウンの包囲戦によるコーンウォリス軍の降伏となった(独立戦争で2度目のイギリス軍の大きな降伏)。その後、イギリスはアメリカ合衆国の独立を認めることになった。 歴史家のラッセル・ウィーグリーはこの結果を次のように表現した。 == 背景 == アメリカ独立戦争の南部戦線では戦略的に決着の付かない状態が続き、イギリス軍のコーンウォリス将軍は、ニューヨークにいるヘンリー・クリントン将軍の部隊と海上を通じた連携をとるため、またイギリス海軍の優位を生かして戦線を有利にするために、1781年の夏、北の要塞化された上陸点であるヨークタウンの海岸に向かった。ニューヨークはジョージ・ワシントンの大陸軍とロシャンボー伯爵のフランス軍から攻撃される恐れがあった。ヨークタウンにイギリス軍が居るということで、チェサピーク湾を支配することが海軍の重要な目標となった。コーンウォリスは、カリブ海のハリケーン・シーズンを回避して北方へ進むイギリス海軍西インド諸島艦隊が来てくれることを期待していた。同時に、ワシントンもチェサピーク湾の戦略的重要性を認識して、カリブ海にいたフランス艦隊に至急来援するよう依頼していた。イギリス艦隊を率いる海軍少将サミュエル・フッド卿はフランス艦隊がチェサピーク湾に向かっているのか、あるいはニューヨークの包囲に向けてアメリカ軍とフランス軍の支援に廻るのかを掴んでいなかった。 イギリス艦隊は8月25日にチェサピーク湾の入り口に到着した。しかし、そこにフランス艦隊がいないことを確認したフッドは、14隻の戦列艦からなる艦隊全部でニューヨークのトーマス・グレイブス提督の艦隊との合流に向かった。しかし、ニューヨークに着いてみると、グレイブスはジョン・ローレンス大佐からの要請に応じて、フランスからボストンへの輸送船団を妨害する為に数週間を費やし、しかもその船団を見つけられないでいたので、戦闘に使える戦列艦をわずか5隻しか持っていないことがわかった。 一方で、フランス艦隊を率いるド・グラスは大変緩りと慎重に航行していたので、フッドはフランス艦隊を見つけられないでいた。ド・グラスはロードアイランド植民地のニューポートにいた僚友のバラス・サン・ローレン伯に数週間も前に正確な到着予定日を連絡していた。バラスはこの情報をニューヨーク包囲戦の準備をしていたワシントンとロシャンボー伯に伝え、この二人は8月14日にその報せを受け取ったときに、ド・グラスの提供しつつある絶好の機会を認識した。ワシントンは南部への急行軍の準備をすると共に、バラスにはヨークタウン包囲に必要と考えるフランス軍の大砲など軍需物資をニューポートからチェサピーク湾までその小さな戦隊で運ぶよう依頼した。ド・グラスは28隻の戦列艦でほぼ予定通りの8月29日にチェサピーク湾に到着し、さらにサンシモン子爵指揮下のフランス正規軍3個連隊も連れてきていた。サンシモンは即座に上陸して、ラファイエット子爵指揮下の大陸軍がコーンウォリス軍の内陸への撤退を阻止する任務を支援した。 バラスは8月26日にニューポートを出港した。グレイブスとフッドの連合部隊はこの動きを察知し、さらにこのときヨークタウンがワシントン軍の作戦目標になったことに気付いて出港し、見失っていたフランス両艦隊を探索した。イギリス艦隊はフランスのバラスが海上では十分注意を払ってバミューダに向かっていたのに気付かず、南のチェサピーク湾に向かった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「チェサピーク湾の海戦」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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