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チカマウガ戦争 : ウィキペディア日本語版
チカマウガ戦争[ちかまうがせんそう]
チカマウガ戦争(、1776年 - 1794年)は、アメリカ独立戦争に併行して、チェロキー族の指導者ドラッギング・カヌーに率いられたインディアン達が、イギリスのアメリカ植民地からやってくる開拓者の侵略に対抗して、その土地を守るために続けられた一連の闘争である。戦争の地域は、バージニア植民地からジョージア植民地にかけてのアメリカ合衆国南部と、当時の考え方では西部であったケンタッキーテネシーにまで拡がった。チカマウガという名前は、アメリカ植民地の人々がドラッギング・カヌーとその追随者のことをそう呼んでいたことによっており、チカマウガという人や部族がいたわけではない。ドラッギング・カヌーは多くのインディアン部族の力を結集したが、その時々の状況に応じて、イギリス、フランス、あるいはスペインの支援を受けた。
当時のチェロキー族は大きな勢力を誇り、その住んでいる地域により大きく分けて4つの集団が存在した。アッパー・チェロキーまたはオーバーヒル・チェロキー、ローワー・チェロキー、ヒル・チェロキーおよびバレー・チェロキーであった。チカマウガ・チェロキーはこれらの集団とは別に行動した。
== 背景 ==
フレンチ・インディアン戦争 (1754年-1763年)の後、フランス領であったミシシッピ川以東のルイジアナカナダと共にイギリスに割譲され、ミシシッピ川以西のルイジアナはスペイン領フロリダをイギリスに渡す見返りにスペイン領となった。フロリダは東フロリダ西フロリダに分割された。イギリスは、フレンチ・インディアン戦争の経験を心に留めて、1763年宣言アパラチア山脈より西への開拓者の移住を禁じたが、このことがアメリカ独立戦争に導く一つの原因にもなった。チェロキー族は、フレンチ・インディアン戦争の間はフランス側に付いて、イギリス・チェロキー戦争 (Anglo-Cherokee War)と呼ばれる闘争が1758年から1761年まで続いた。イギリスの植民地政府は、サウスカロライナチャールストンを本拠とした南部インディアン問題監察官のジョン・スチュアートにチェロキーとの折衝を任せたが、実務はその副官でチェロキー族の中で暮らしているアレクサンダー・キャメロンを通じて行われた。
チェロキー族も関わったポンティアック戦争 (1763年-1764年)の後、イロコイ連邦1768年スタンウィックス砦条約で、オハイオ川とカンバーランド川の間の狩猟場に対する所有権主張を取り下げた。この地域はインディアンの間でケンタッキーと呼ばれ、付近の部族も所有権を主張していた。一方、オハイオ川と五大湖地方の間の地域は、イギリスが植民地化する計画を立てていた。これらの事が多くの紛争を生むことになり、イギリス・チェロキー戦争とアメリカ独立戦争の間の期間も、チェロキー族は小さな部隊を作ってケンタッキーやオハイオ川と五大湖地方のイギリスに対する反抗を繰り返した。
アパラチア山脈の西側のチェロキー族領土への最初の侵犯は1759年に起こった。ノースカロライナの農夫だったジェームズ・ロバートソンが探検家のダニエル・ブーンと共にアレゲーニー山脈を超えて、今日のテネシー州エリザベストンのワトーガ川沿いに来た。そこでインディアンが何代にも亘って耕作していた「オールド・フィールズ」を見つけ、ロバートソンはトウモロコシを植え付けることにし、ブーンは探検を続けた。
ロバートソンは一旦ノースカロライナに帰り1767年には結婚した。世直し運動を終わらせることになった1771年のアラマンスの戦いの後で、多くのノースカロライナの人々がイギリスに対する忠誠を誓うことを拒否し、ロバートソンが先導して世直し運動に関わった12,3家族が植民地を離れた。この1隊はそこがバージニア植民地の境界内と信じて、ワトーガ川の堤に入植した。キャメロンは調査によってその誤りが分かると退去を命じた。しかし、その地域のチェロキー族指導者が仲裁に入り、これ以上チェロキー族の領土を侵さないという条件で定住を許した。
1772年にロバートソンと開拓者達は最終的に北東テネシーに定着し、独立した地方政府であるワトーガ協会を設立した。〔http://www.tcarden.com/tree/ensor/Watag.html "Watauga Petition". Ensor Family Pages.〕
しかし、測量士がその土地はチェロキー族の領土内にあるとしたので、チェロキー族は開拓者に賃貸しするための交渉を要求した。この賃貸しがまさに成立しようとしたときに、チェロキー族戦士が白人に殺されるという事件が発生した。チェロキー族は力に訴えても開拓者を追い出すと脅したが、ロバートソンの巧みな外交術で怒り狂うインディアンを鎮めることができた。
一方、ダニエル・ブーンらが初めてケンタッキーに造ったブーンズボロ砦の入植者に対しては、ショーニー族デラウェア族、ミンゴ族、およびチェロキー族が、ブーンの息子を含む偵察と食糧探しの集団に攻撃をかけたことから、ダンモアの戦争 (1773年-1774年)が始まった。
1年後の1775年、リチャード・ヘンダーソンとブーンに導かれたノースカロライナの土地投機家の1隊が、シカモア・ショールズで、オーバーヒル・チェロキーの指導者とワトーガ条約の交渉を行った。その部族の酋長はオコノストタとアタクラクラであり、ケンタッキーの土地に対するチェロキー族の領有権主張を取り下げ、ショーニー族やチカソー族のような他の部族による領有権主張も無視して、推測するところではトランシルバニア土地会社に土地を売り渡していた。グレートアイランド集落の酋長でアタクラクラの息子のドラッギング・カヌーはこの取扱いを拒否し、ノースカロライナの男性達に、「お前達は晴れた土地を買ったが、その上には雲が掛かっている。そこに入植すれば暗く血塗られたものになるだろう」と伝えた。ワトーガ条約はバージニアとノースカロライナの知事によって直ぐに拒絶され、ヘンダーソンは捕まることを恐れて逃げ出さなければならなかった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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