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チャラカ・サンヒター : ウィキペディア日本語版
チャラカ・サンヒター

チャラカ・サンヒター』(チャラカ本集)は、アーユルヴェーダ(インド医学)の医学書で、北西インドの都タキシラを中心とするアートレーヤ学派の医学がまとめられている。アグニベーシャのテキストをチャラカが改編し、それに長年にわたって多数の人物の手が加えられたものであるとされている。実用的・専門的な医学書として、2000年に渡って使わた。『チャラカ・サンヒター』の原典はすでになく、写本やそのほかの刊行物も、それぞれ内容が大きく異なっている〔 「インド人の生命観(2)アーユルヴェーダの生命観」鷲尾倭文 跡見学園短期大学紀要24〕。
スシュルタの『』(スシュルタ本集)、ヴァーグバダの『』(八科精髄集)、の『病因論』(Rug-vinischaya, または『ニダーナ』。インド医学で初めて一つのテーマを専門的に論じた医学書)と並び、アーユルヴェーダを代表する古典医学書のひとつである〔矢野道雄 『科学の名著 インド医学概論 チャラカ・サンヒター』 朝日出版社、1988年〕。アーユルヴェーダは古典の段階で医学体系として完成しており、これらは現在でもテキストとして参考にされている。
== 成立 ==
カニシカ王(2世紀)の侍医であったともいわれるチャラカの名が冠されているが、チャラカ個人による著作ではない。アーユルヴェーダの起源は神々にあると伝えられており、ブラフマー神(梵天)によって最初に説かれ、プラジャーパティリグ・ヴェーダで医療の神と讃えられたアシュヴィン双神インドラ神と伝えられ、仙人バラドヴァージャがインドラ神の元に赴いて教えを乞い、弟子アートレーヤに教えた。アートレーヤの6人の弟子の1人アグニベーシャが『アグニヴェーシャ・タントラ』にまとめ、これをチャラカが改編したものとされる。さらに長年にわたり多数の人物によって加筆が行われ、現在の形になったと考えられている。そのため、あえて著者を1人挙げるならアグニヴェーシャであり、『チャラカ・サンヒター』は『アグニヴェーシャ・タントラ』とも呼ばれる。本来『アグニヴェーシャ・タントラ』と呼ばれるはずのものが『チャラカ・サンヒター』とされたのは、チャラカが改編者としてだけでなく、医者として優れていたからだろうといわれる。チャラカ(Charaka)という言葉は、car(さすらう)という語根に由来している。古代の医学は呪術的なものであったが、チャラカに象徴されるような、各地を遍歴し、血や膿といった不浄に触れる異端・遍歴の医者・苦行者たちが、医学に変革を起こし呪術から解き放った〔梶田昭 『医学の歴史』 講談社〈講談社学術文庫〉、2003年〕。
チャラカによる改編は、諸説あるが1 - 2世紀に終わったとみなされている。しかしチャラカはこの仕事を最後までやり遂げることなく没したようであり、全8巻120章のうち第6巻14章以降にチャラカの手は加えられていない。古典医学書のひとつ『スシュルタ・サンヒター』とは相互に言及がないため、成立の前後関係は不明である。6巻以降にはドリダバラによる改編があり、この人物は6 - 9世紀の人物だと考えられている。この時代にほぼ現在の形が完成し、1060年頃にチャクラパーニダッタによって注釈が施されている。
『チャラカ・サンヒター』をサンスクリット語から翻訳したインド数学・インド占星術研究者の矢野道雄によれば、アーユルヴェーダは、古典医学書の段階でおよそ完成しているが、新しく取り入れられたものも、サンスクリット化されテキストに組み込まれると、太古からあったものとして扱われる点に特徴がある〔インド哲学者・仏教研究者の中村元は、偽書は西洋でも製作され、中国にも相当多いが、インドはそれと比較にならないほど多く、著者名の記載はたいていの場合虚偽であると言ってよいかもしれないと述べている。これは、インドでは個ではなく普遍的な真理が問題とされるような傾向があり、著者が誰であるかより真理を語っていることが重要であると考えられたためで、その真理は古代の偉人や神々に帰せられた。「仏が説いたから真理であるのではなく、真理であるから仏が説いたはずである」とされ、教説を仏に帰することはやましいこととは考えられていなかったという。(中村元 著 『中村元選集 決定版 第1巻 東洋人の思惟方法 / インド人の思惟方法』春秋社、1988年)〕。現在のアーユルヴェーダでは、内服薬としての水銀の使用、脈診などが行われるが、『チャラカ・サンヒター』の段階では鉱物薬は限定的にしか用いられておらず、脈診については全く述べられていない〔。脈診は中国からチベット経由でインドにもたらされたと考えられ〔なお、アーユルヴェーダ医(B.A.M.S.)のRajesh .A. Shrotriya は、脈診における身体観は、ヨーガにおける(ナーディ管、脈管、経絡)の理論が取り入れられていると述べている。明治薬科大学 蛭川研究室の公開資料「インド的瞑想文化」によると、ハタ・ヨーガの身体観では、全身に血管のような脈管であるナーディ(nāḍī)が行きわたっており、そこにプラーナ(prāṇa、中国医学に比される概念)という生命エネルギーが流れていると考えられた。頭頂から会陰まで、胴体の中心にもっとも太いナーディ、スシュムナー・ナーディ(suṣumnā nāḍī)があり、スシュムナー・ナーディ上に、チャクラ(cakra)というエネルギーのセンターが7個存在するとされている。会陰から尾てい骨にある最下位のチャクラに、とぐろを巻いた蛇(クンダリニー kuṇḍalinī)または女神(シャクティ śakti)によって象徴される女性的で根源的なエネルギーが眠っており、ヨーガを行うことによってそのエネルギーが覚醒すると考えられた。ヨーガを行うことによって覚醒したクンダリニーのエネルギーは、さらにヨーガを行うことにでスシュムナー・ナーディを上昇し、頭頂のチャクラで男性的なエネルギーと結合し、解脱の境地、サマーディ(samādhi、三昧)が実現されるという。ヨーガは自らの解脱を目指すものであり、医療であるアーユルヴェーダとは区別された。〕、水銀の内服はペルシアまたは中国から伝わった錬金術練丹術の影響と思われる〔
〔インドには紀元前10世紀頃から冶金の技術があり、仏教が中国に伝わった2世紀頃には中国との交流が盛んになり、中国の練丹術が伝わってインドでも錬金術が発展した。インド錬金術は不老不死を目指すものであり、錬金術書『ラサラトナーラカ』(''Rasaratnakara'' )を書いた(10世紀頃)などの錬金術師が活躍し、アーユルヴェーダには水銀や鉱物を使う不老長生法・錬金術も含まれるようになった。(草野巧 『図解 錬金術』 新紀元社、2008年)〕。しかし、矢野によると、一般にインドでは全てインド起源であると考えられているという。
アラビアでは、イスラーム黄金時代にギリシャ・ローマの医学書が多く翻訳されたが、『チャラカ・サンヒター』などのインド医学書も、インドの医師の協力でアラビア語に翻訳された。
また、ヴァーグバダによって、『チャラカ・サンヒター』、『スシュルタ・サンヒター』の内容を折衷した『アシュターンガフリダヤ・サンヒター』(八科精髄集)が書かれた。成立年代は特定されていないが、義浄の『南海帰寄内法伝』にヴァーグバダと思われる人物の記述があり、義浄のインド滞在(672 - 682年)より前だとされる。よくまとまった読みやすい医書で、広く普及し、チベット、アラビアなど国外にも伝えられた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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