翻訳と辞書 |
チャールズ・E・ラフリン : ウィキペディア日本語版 | チャールズ・E・ラフリン[ちゃーるずいーらふりん]
チャールズ・エリオット・ラフリン(Charles Elliott Loughlin, 1910年2月19日-1989年10月31日)〔"Loughlin" の日本語読みは多様である。本項ではディングマン『阿波丸撃沈』の川村孝治の翻訳に拠った。ロリ・ロックリンも参照。〕は、アメリカ海軍の軍人、最終階級は少将。 潜水艦クイーンフィッシュ (''USS Queenfish, SS-393'') の艦長として4度の哨戒を行う。35年の海軍歴の中で海軍十字章とレジオン・オブ・メリットを2度ずつ、シルバースターを1度受章した〔#Find a Grave〕。しかし、ラフリンの経歴の中で最も知られているのは1945年4月1日に緑十字船阿波丸(日本郵船、11,249トン)を撃沈し軍法会議にかけられた「阿波丸事件」である。 == 生涯 ==
===前半生=== チャールズ・エリオット・ラフリンは1910年2月10日にノースカロライナ州ウィルミントンで生まれる。海軍兵学校(アナポリス)に進んだラフリンはテニスとバスケットボールに才能を示してそれぞれのチームに所属し、特にバスケットボールの分野においては1932年から1933年のシーズン、のメンバーに名を連ねた〔〔#ディングマン p.51〕。1933年に海軍兵学校(アナポリス)を卒業。卒業年次から「アナポリス1933年組」と呼称されたこの世代からは、アーチャーフィッシュ (''USS Archer-fish, SS-311'') 艦長として空母信濃を撃沈したジョゼフ・F・エンライト、ハリバット (''USS Halibut, SS-232'') 艦長を経て大将に登りつめたなどがいる。卒業後は戦艦ニューメキシコ (''USS New Mexico, BB-4'') に配属され、のちに「原子力海軍の父」と称されるようになる、機関長ハイマン・G・リッコーヴァー中尉(アナポリス1922年組)のサポート役を務める〔〔。1938年、ラフリンは潜水艦畑に進んでコネチカット州ニューロンドンの潜水学校に入り、さまざまな潜水艦に乗り組んだあと (''USS S-14, SS-119'') 艦長としてパナマ海域、カリブ海および西大西洋における防衛的な哨戒にあたり、1942年中に4度の哨戒を行った〔〔#Blair p.896〕。地味な日々であったが評価され、のちにクイーンフィッシュとして命名される潜水艦のキール据え付け段階から艦長に内定し、S-14の乗組員から未来のクイーンフィッシュの乗組員を優先的に選抜した〔#ディングマン pp.50-51〕。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「チャールズ・E・ラフリン」の詳細全文を読む
スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース |
Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.
|
|