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チャールズ・ラドボーン(Charles Gardner "Old Hoss" Radbourn、1854年12月11日 - 1897年2月5日)は、19世紀のアメリカ・メジャーリーグの野球選手。主なポジションは投手。ニューヨーク州ロチェスター生まれ。右投げ右打ち。愛称は"Old Hoss"(オールド・ホス)。実働11年で300勝に到達、シーズン60勝(詳細下記)のメジャーリーグ記録を持つ。 ==略歴== 1880年にバッファロー・バイソンズでデビュー。当時は野手として試合に出ていたが、打つほうがさっぱりで1年で解雇される。1881年に投手としてプロビデンス・グレイズと契約。その年に41試合に登板して25勝を挙げる。翌1882年に33勝、1883年には76試合に登板して48勝を挙げ、リーグの最多勝投手となった。1883年から1884年にかけては野球ルールの下手投げ制限が撤廃された年であるが、彼はずっとサブマリン投法を通したそうである。 1884年、所属していたプロビデンス・グレイズはユニオン・アソシエーション創立の影響を受け、二枚看板の一人だったチャーリー・スウィーニーがシーズン途中で移籍してしまうという危機に陥る。自らも移籍を考えていたラドボーンはこの事態を逆手に取り、「残り試合を全て投げる」ことを条件にFA権の獲得を球団と交渉したという。特に、この年ラドボーンの登板回数は実に75試合になり(73試合に先発し全試合完投。抑えで2試合登板)、シーズン通算で60勝を挙げただけでなく、奪三振441、防御率も1.38を記録、投手部門の三冠を手中にする。(この年は勝率とセーブ数もトップ。セーブ数は下記を参照)投手三冠王とセーブ王の同時獲得は史上初の快挙で投手全タイトル制覇(当時はタイトルではないものもある)を達成し、勝率でもトップになったため、史上初の投手主要5部門制覇(投手五冠王)を達成した。さらにスウィーニーが移籍した後のシーズン後半はほぼ一人で投げぬいた。圧巻はシーズンの終盤で、チームの残り試合数の27試合の全てに登板し、26勝を挙げる活躍をした。またこの年、リーグ優勝チーム同士で争われたポストシーズン・ゲーム(ニューヨーク・メトロポリタンズとの5連戦)でも3連投して3連勝する。 1886年にボストンに移籍、以後投手実働11年で、20勝以上を挙げた年が9シーズンにも及ぶ。ただ飲酒などの影響からかボストン時代は成績の芳しくない年もあり、1887年には自責点及び与四球はリーグ最多を記録する。同年の防御率は4.55だった。 1891年にシンシナティ・レッズ在籍時に通算300勝を達成する。同年引退。引退後、猟銃の事故により片目を失うアクシデントに見舞われる。1897年、梅毒からの合併症によりイリノイ州で死去。42歳。 1939年に、ベテランズ委員会がアメリカ野球殿堂入り選手に選出した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「チャールズ・ラドボーン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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