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褚裒(ちょ ほう、303年 - 350年)は、中国の東晋の外戚。康帝の皇后褚蒜子の父にあたる。字は季野。本貫は河南郡陽翟県。 == 経歴 == 武昌郡太守の褚洽の子として生まれた。若くして高雅な風格をもち、杜乂とともに東晋で名を知られた。はじめ西陽王掾として召され、呉王文学に転じた。蘇峻の乱が起こると、褚裒は郗鑒の下で車騎参軍となった。蘇峻の乱が平定されると、褚裒は功績により都郷亭侯に封じられた。しばらくを経て司徒従事中郎に転じ、給事黄門侍郎に任じられた。娘の褚蒜子を琅邪王司馬岳にとつがせて、琅邪王妃に立てさせると、褚裒は豫章郡太守として出向した。342年(咸康8年)、司馬岳(康帝)が即位すると、褚裒は建康に召還されて、侍中に任じられ、尚書に転じた。娘が皇后に立てられたことから、朝廷の顕位にあることをはばかって外任を求め、建威将軍・江州刺史に任じられて、半洲に駐屯した。任地にあっては清廉倹約につとめ、私童を使って木材の伐採をしていた。343年(建元元年)、建康に召還されて、衛将軍となり、中書令を兼ねた。褚裒は中書として人材選抜の詔命にあたるよう求められたが、外戚がその任にあるのはよろしくないと言って、固辞した。そこで左将軍・兗州刺史・都督兗州徐州之琅邪諸軍事・仮節に任じられ、金城に駐屯した。さらに琅邪国内史を兼ねた。 344年(建元2年)、康帝が死去し、穆帝が即位すると、褚蒜子は皇太后に上った。褚裒は皇太后の父として、臣下の礼を免除され、兗州刺史のまま侍中・衛将軍・録尚書事に任じられた。褚裒は外戚として朝廷の中枢にあることを遠慮し、またも外任への出向を求めた。そこで改めて都督徐兗青揚州之晋陵呉国諸軍事・衛将軍・徐兗二州刺史・仮節に任じられ、京口に駐屯した。 345年(永和元年)、褚裒は建康に召還されて、揚州刺史・録尚書事に任じられるところだった。しかし吏部尚書の劉遐や長史の王胡之の勧めにより辞退した。346年(永和2年)、征北大将軍・開府儀同三司の位に進められたが、開府を固辞した。 349年(永和5年)、後趙の石虎が死去すると、褚裒は上表して北伐を求めた。その日のうちに戒厳を布き、泗水の河口に直接向かった。朝議は重任にある褚裒に深入りを避けさせ、先に偏師を派遣することを認めた。褚裒は督護の王頤之らを先鋒として派遣して彭城に向かわせた。後に督護の麋嶷を下邳に進軍させ、趙軍を撃破した。これにより褚裒は征討大都督・督青揚徐兗豫五州諸軍事に任じられた。褚裒は3万の兵を率いて彭城に進軍し、河北の人々で東晋に帰順する者は日に1000を数えた。褚裒はかれらを受け入れて慰撫し、その歓心を買った。先に派遣していた督護の徐龕が沛を攻撃し、後趙の相の支重を捕らえ、沛郡から2000人あまりが投降した。魯郡の山中の500家あまりが、東晋の支援を求めてきたため、褚裒は徐龕に精鋭3000を与えてこれを迎えさせた。しかし徐龕は褚裒の命令にそむいて、軍を代陂に宿営させたため、後趙の将の李菟に敗れ、過半を死傷させ、徐龕は敵軍に殺害された。褚裒は敗戦の責任を自ら認めて降格を申し出て、征北将軍行事となり、広陵に駐屯することとした。穆帝は偏帥の責任であって、咎めには当たらないとし、褚裒の降格を認めず、京口に帰らせ、征討都督の任を解いた。 石虎の死により後趙の国内は混乱し、20万人が黄河を渡って、東晋に救援を求めた。しかし褚裒はすでに撤退していたため、対応することができず、かれらは慕容皝や苻健の兵の攻撃にさらされて、殲滅された。褚裒は遠い地の情勢をみながら何もできず、憂憤のうちに発病した。京口に到着して、人々の泣き声が聞こえたため、褚裒が訊ねると、「代陂の役なり」との答えを得たため、褚裒はますます慚愧の念に沈んだ。350年1月1日(永和5年12月己酉)、死去した。享年は47。本官に加えて侍中・太傅の位を追贈された。諡は元穆といった。 子の褚歆は、字を幼安といい、散騎常侍・秘書監を歴任した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「チョホウ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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