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ラーマ4世()は、チャクリー王朝の第4代のシャム国王。の創設者。チョームクラオや、モンクット()の名でも呼ばれる。ただし、ラーマ6世の名にもモンクットの語が登場するため注意を要する。 かつて発行されていた50バーツ紙幣に肖像が使用されていた。 == 生涯 == 父はラーマ2世、母はシースリエントラー(Sri Suriyendra)である。 元々は兄のラーマ3世よりも彼の方に王位継承権があったが、学業専念のために兄に王位を譲り、学問を続けた。即位までの27年間は出家して寺院に属し、経文の言語であるパーリ語、サンスクリット語をマスターした。その中でタイの仏教のあり方に疑問を感じていた。 その後、キリスト教宣教師の手を借りて、英語・ラテン語を学び、ルネサンスを通じて教義が合理化されたキリスト教に触れ、新時代の宗教は合理化されたものでなければならないと感じ、俗信を排除した仏教を建てた。このとき建てられた革新派の仏教集団をと言う。ラームカムヘーン大王碑文を発見した人物でもある。 即位後は、西洋との関係を重視し、イギリスからアンナ・レオノーウェンズ(Mrs. Anna Leonowens)を家庭教師に招き入れ、子弟に西洋の教育をさせた。このときのことは小説『』に書かれているが、アンナに虚言癖があったため、全面的な信用はしない方がよいと言われる。この話は後に『王様と私』で劇作化、『アンナと王様』で映画化されたが、いずれもタイでは上映が禁止されている。 1854年には清への朝貢を止め、トンブリー王朝以来つづいていた冊封体制から脱した。1855年にイギリスと通商貿易に関する (不平等条約) を締結。西洋と自由貿易を開始し、米を輸出するようになった。このためタイの中央平原部に運河が多く建設され、米の増産がはかられた。現在においても米はタイの大きな輸出品目である。外国人の便宜を図るため、「ニューロード」(ジャルンクルン通り)を建設したりもした。また、62人の子を残したとされる。 ラーマ4世(モンクット王)は独学で学んだ天文学によって日食の場所・時刻を発見し、1868年9月18日にプラチュワップキーリーカンを訪れ、予測通り観測できたといわれる。しかし、観測場所に選んだサームローイヨート付近はマラリアのはびこる地帯であったため、ラーマ4世もこれに伝染し、2週間後崩御したという。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ラーマ4世」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Mongkut 」があります。 スポンサード リンク
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