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チンカイ(Činqai/チンハイ、? - 1251年?〔『中国史』3(世界歴史大系, 山川出版社, 1997年7月)、索引10頁〕〔長沢「チンハイ」『アジア歴史事典』6巻、371頁〕)は、モンゴル帝国の政治家。『集史』『世界征服者の歴史』などのペルシア語資料では چينكقاى بيتكچى Chīnkqāī Bītikchī、 چينقاى بيتكچى Chīnqāī Bītkchī と書かれる。漢語史料では鎮海と書かれ、田鎮海とも呼ばれた。漢語史料の『元史』ではケレイト部族の出身〔元史 巻120 〕、ペルシア語の『集史』ではウイグル部族〔志茂碩敏『モンゴル帝国史研究正篇』(東京大学出版会, 2013年6月)、801頁〕とされる〔史料に見られるチンカイの出自の違いについて、東洋史学者の村上正二はチンカイはケレイト部族に属していたウイグル人商人であり、チンギスのケレイト平定後にモンゴルに加わり、財政顧問として重要な役割を担うことになったと説明している。(村上正二「元朝における泉府司と斡脱」『モンゴル帝国史研究』収録(風間書房, 1993年5月)、58,93頁)〕。ネストリウス派のキリスト教徒だと伝えられている〔ドーソン『モンゴル帝国史』2巻、257頁〕。 == 生涯 == 軍伍長としてチンギス・カンに仕え、ケレイトとの戦いで敗走したチンギスとともにバルジュナ湖の濁水をすすった19人の功臣の一人に含まれる。1203年のナイマン部族討伐に参加し、戦後チンカイは軍功を評価されて良馬を下賜される。 チンギスがモンゴル高原を統一すると、チンカイは宮廷(オルド)に仕える書記官僚(ビチクチ)の筆頭に挙げられた。1212年にチンカイはアロハン(阿魯歓)での屯田を命じられ、同年に鎮海城の名前で知られる城砦を建設する。南宋からの使者・彭大雅および徐霆による報告書『黒韃事略』には、チンカイが中国と漢北の中継交易で利益を上げていたことが報告されている〔村上正二「元朝における泉府司と斡脱」『モンゴル帝国史研究』収録(風間書房, 1993年5月)、58頁〕。チンギスの招請を受けた全真教の道士・丘長春(長春真人)は、中央アジアへの旅行の途上に鎮海城を訪れてチンカイに面会し、ここから先の旅程をチンカイと共にしている。 チンギスの死後、後継者オゴデイ・ハーンのもとで整備された宮廷書記による文書行政機構(中国史料の中書省)の最高責任者(ウルグ・ビチクチ)となり、漢文史料には「中書右丞相」の肩書きで表れる。チンカイは首都カラコルムに置かれた書記局の首班を務め、マフムード・ヤラワチ、耶律楚材、粘合重山ら様々な人種で構成される人員を統率した〔杉山『モンゴル帝国の興亡(上)軍事拡大の時代』、68-70頁〕。文書化されたハーンの命令はチンカイが文末にウイグル語で添え書きをして初めて効力を持ち、そのためチンカイはモンゴル帝国の東西に強い権限を有していたと言える〔。また、オゴデイの下で行われた金国遠征に従軍し、河中、河南、釣州、蔡州を攻撃した功績によって恩州の千戸を与えられ、西域、汴京の工匠の管理を命じられた。 1241年にオゴテイが死去すると、監国として政権を握ったオゴデイの后ドレゲネによって中書右丞相の職を解任されるが、オゴデイの長男グユクの即位後に復職する〔ドーソン『モンゴル帝国史』2巻、215,230頁〕。病身であるグユクは政務を執ることができず、チンカイともう一人の大臣であるカダクに内政の処理を委任していた〔。トゥルイの長子モンケが即位した後、チンカイはグユクの皇后オグルガイミシュと共に処刑されたが〔ドーソン『モンゴル帝国史』2巻、288頁〕、グユクの支持者と見なされたためだと考えられている〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「チンカイ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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