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ティベリウス・センプロニウス・グラックス・マイヨル(、 紀元前217年頃 - 紀元前154年)は共和政ローマ時代の軍人、元老院議員。プレブス系センプロニウス氏族グラックス家の出自。グラックス兄弟の父親になる。また同名の息子と区別するために「大グラックス(Gracchus Maior)」と称される。また叔父に第二次ポエニ戦争で奴隷軍団を指揮したティベリウス・センプロニウス・グラックスがいる。 ==経歴== いくつかの軍歴を経て、紀元前187年にグラックスは護民官へ当選したが、在職中スキピオ・アフリカヌスに元老院の非難が集中する中で、グラックスはそれまで対立のあったスキピオを弾劾から救った。そして、この彼の勇気ある言動に対してスキピオは娘コルネリアとの婚姻を求めることで報いたが、コルネリアは当時は幼かったために実際の結婚生活はグラックスが40代中盤になってからであった。 紀元前179年にプラエトル(法務官)に当選する。軍団指揮権を授けられた彼はヒスパニアに赴き、現地のイベリア人の反乱を鎮圧、その功績にて凱旋式を敢行する(第一次ケルティベリア戦争)。 紀元前177年には執政官を務め、紀元前169年にはケンソル(監察官)となる。この職務に対しての元老院の風当たりは強く、同僚のケンソルが告訴される寸前までいったと言う。グラックスはローマより同僚ケンソルとともにローマ国外に退去する。結局グラックスの民衆からの人気の高さに押されて告訴は取り下げられて終わるが、彼も同僚とともに辞職した。紀元前163年に彼はコンスルに再当選する。そしてサルディニア島に侵出、この功績にて2回目の凱旋式を挙げる。一説には彼はこの遠征を妨害されないように、その年の執政官であるプブリウス・コルネリウス・スキピオ・ナシカ・コルクルムを謀略にかけて執政官から退かせたともいわれている。これがナシカ・コルクルムとの間に緊張関係を生み出したかどうかは定かではない。しかし彼らの息子たち(同名の息子ティベリウスとプブリウス・コルネリウス・スキピオ・ナシカ・セラピオ)はのちに政治的に対立する間柄となる。 またグラックスはギリシア語に堪能で、紀元前168年にギリシアのロドス島でギリシア語で演説を行っている。このようにグラックスは政治的、軍事的にも偉大な功績を残したが、何よりも彼はその人柄によって名声を得ていた。紀元前154年に彼は没するが、その時までには彼はローマ社会を牽引する人材と見られていた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ティベリウス・センプロニウス・グラックス・マイヨル」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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