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ティム・キーフ(Timothy John Keefe、1857年1月1日 - 1933年4月23日)は、19世紀のアメリカ・メジャーリーグの投手。マサチューセッツ州ケンブリッジ生まれ。右投げ右打ち。ニックネームは"Sir Timothy"(サー・ティモシー)。投手の球種の1つであるチェンジアップを初めて実用した投手とされている。 == 略歴 == 1880年にトロージャンズからデビューし12試合に登板。この年の防御率は後年計算したところ、0.86であった。〔内訳は、投球回105.0で自責点10。同年はシーズン83試合の日程だったため、現在の規定に基づくと規定投球回数は83.0回である。〕1882年までトロージャンズでミッキー・ウェルチと先発の二枚看板をなしていた。 1883年、アメリカン・アソシエーションのメトロポリタンズに移籍。これは当時メトロポリタンズ、ゴサムズの両方を持っていたオーナーの意向で、ゴサムズの二枚看板であるウェルチとキーフを、それぞれのリーグに振り分けたためである。同年キーフは68試合に登板して41勝27敗、619回を投げてリーグ最多の361の奪三振を記録した。1883年7月4日にはダブルヘッダーに続けて先発し、両方の試合を完封した記録もある。 1884年、ワールドシリーズの前身となる年間王者決定戦(ナショナルリーグ、アメリカン・アソシエーションの優勝チームによる5回戦制)に出場し、この年に年間60勝を挙げていたチャールズ・ラドボーンと投げあった。結果は2連敗で、その後彼はそのままそのシリーズの審判を務めている。 1885年、オーナーが利益の低かったメトロポリタンズから再度選手を引き上げ、キーフはニューヨーク・ジャイアンツで再びウェルチのチームメイトとなった。同年は46試合の登板ながら防御率はリーグ最低の1.58を記録する。翌1886年は自身2度目の40勝を記録(42勝20敗)し、1888年にはシーズン19連勝を含む35勝、335奪三振、防御率1.74の記録を残し、投手三冠を手中にした。ジャイアンツ在籍中には自らユニフォームをデザインして、球団に売り込んだこともあったという。 1883年から1888年まで6年連続で30勝を上げ、1893年にフィリーズで現役を引退。現役最後の年は投手-本塁間の距離が長くなり、今と同じ60フィート6インチ(約18.4m)になっていたが、それでも10勝7敗の成績だった。引退後は1896年まで審判員としてナショナルリーグに関わっていた。 1933年、生まれ故郷のケンブリッジにて逝去。1964年、ベテランズ委員会によりアメリカ野球殿堂入り選手に選出された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ティム・キーフ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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