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ティルマラ・デーヴァ・ラーヤ(テルグ語:తిరుమల దేవ రాయలు, タミル語:திருமலை தேவ ராயன், Tirumala Deva Raya, 1485年以降 - 1578年)は、南インドのヴィジャヤナガル王国、アーラヴィードゥ朝の君主(在位:1569年 - 1572年)。第4王朝アーラヴィードゥ朝の創始者でもある。 ==生涯== 1542年、ヴィジャヤナガル王アチュタ・デーヴァ・ラーヤが死亡したのち、兄ラーマ・ラーヤとともにその甥サダーシヴァ・ラーヤを擁し、アチュタ・デーヴァ・ラーヤの息子ヴェンカタ1世を擁するサラカラージュ・チンナ・ティルマラ に対抗した。 1543年までにラーマ・ラーヤは王国の摂政として権力を握り、ティルマラ・デーヴァ・ラーヤは弟のヴェンカタードリ・ラーヤとともにその補佐にあたった。 1565年1月、ラーマ・ラーヤとヴェンカタードリ・ラーヤがデカン・スルターン朝連合軍との戦い(ターリコータの戦い)で殺害されると、ティルマラ・デーヴァ・ラーヤはヴィジャヤナガルへと逃げた。そののち、1500頭の象の上に載せた国庫の財宝とともにサダーシヴァ・ラーヤを連れて逃げ、ヴィジャヤナガルの南東100数十kmのペヌコンダを首都として統治を続けた。 1569年、ティルマラ・デーヴァ・ラーヤはサダーシヴァ・ラーヤから王位を簒奪し、アーラヴィードゥ朝を創始した。 ティルマラ・デーヴァ・ラーヤはヴィジャヤナガル王国を3つの領域に分け、3人の息子シュリーランガ、ラーマ、ヴェンカタをペヌコンダ、シュリーランガパッタナ、チャンドラギリにそれぞれ配し、アーンドラ地方、カルナータカ地方、タミル地方の統治に当たらせ、王国の領土を維持した。 1572年、ティルマラ・デーヴァ・ラーヤはあまりにも老齢になったことを理由に、息子シュリーランガ1世に王位を譲って退位し、隠居することとなった。兄ラーマ・ラーヤがターリコータで戦死した際に80歳であったことから、彼もかなりの高齢であったと考えられる。 ティルマラ・デーヴァ・ラーヤは退位後、ヒンドゥー教に帰依した余生を送り、1578年に死亡している。4年後にはシュリーランガ1世も死亡し、弟のヴェンカタ2世が王位を継承した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ティルマラ・デーヴァ・ラーヤ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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