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テオパンテクアニトラン : ウィキペディア日本語版
テオパンテクアニトラン

テオパンテクアニトラン(Teopantecuanitlán)は、メキシコゲレロ州東部、南シェラマドレ山脈山中のアマクサック川と南側に屈曲して流れるメスカラ川にはさまれた標高600mの平坦な台地上にある先古典期中期に繁栄したオルメカ文明の遺跡祭祀センター)である。名称はナワトル語で「ジャガー神の神殿」を意味する〔 Martínes2001,p.200〕。レオン山の北東方向にA・B・C群と呼称される3つの遺構群とニーダーベルガーによって調査されたLomeríos地区とが1.6㎢にわたってこの遺跡を構成している〔 伊藤2011,p.141〕。
A群は、C群の南西1.5kmの位置にあり、B群はレオン山の北東の平坦地にN-18°-Wの主軸線状に建造物が並んでいる。B群に隣接して南西方向のレオン山斜面にA群がある。C群は、大規模な建造物2基、球戯場2基をはじめとして数基の小規模な建造物と広場からなっている。A群に隣接するようにして半地下式「中庭」〔伊藤はこれを「半地下式広場」(伊藤2011,p.141)と呼ぶと同時に「中庭」(同)とも呼んでいる。英語文献では、sunken patio、sunken court、sunken enclosureと呼ばれ一定していない。enclosure と呼ぶ場合は、壁に囲まれた長方形をしていることなどを強調したい場合に用いている。いわゆる神道でいうところの「斎庭」のような儀礼をおこなう場所に近いとおもわれるが、なじみ深い訳語がない。中南米通じてこのような儀礼をおこなうための半地下式の広場や空間がみられる。ここでは、伊藤が用いた表現をそのまま用いるのを避け、伊藤自身が用いているpatioの訳語とおもわれる「中庭」を採り、半地下式「中庭」と呼ぶ。〕で有名なRecinto複合がある。
テオパンテクアニトランは、メキシコ国立人類学歴史学研究所のガダルーペ・マルティネス・ドンファンによって盗掘からの保護のために1980年代前半に調査が行われた。
テオパンテクアニトランの編年は、古い順からI - III期に分ける考え方〔 伊藤2011,p.141〕と7つの放射性炭素年代測定サンプルによってIII期をIII期とIV期に細分する考え方〔Niederberger1996,p.97〕がある。表面採集調査と土器片の分析によって、テオパンテクアニトランが繁栄したのはII期、III期であることが判明した。
== 中心部 Recinto複合とその周辺の変遷 ==
I期は-1423±112BP、-1390±126BPの年代が得られたサンプルによって位置付けられ、後者のサンプルは、その時期の公共的ないしは儀礼的な用途に用いられた建物の壁や床面に使われた特徴的な黄色っぽい粘土に含まれていたもので、その建物が機能した時期の下限を示す時期の指標となりうるものである。具体的にはおおむね紀元前1200年から同1000年に当たる時期とされる。この時期には、Recinto複合に高さ1.2m、短辺26m、長辺32mの長方形のプランをもつ土製の建造物が築かれた。その建造物の内側には半地下式「中庭」が造られたが、II期に改造されている。建物の表面は、前述したように黄色っぽい粘土とつき固められた土によってつくられた。
I期の建物が建設された時期にすでに南側の階段を様式化したジャガー神の顔を表現するように造ったようである。
II期は、紀元前1000年から同800年の時期で、-844±58BP、-822±117BPの年代が得られたサンプルで位置付けられる。Recinto複合では、土製建造物を石灰岩のブロックを用いて覆って築かれている。建物の床面に設けられた溝の壁面にもそのようなブロックが用いられている。この建造物の内側には、18.6×14.2mに達する半地下式「中庭」が設けられ〔Niederberger1996,p.97〕、その半地下式「中庭」をめぐるような回廊状の構造になっている。特筆すべきなのは、半地下式「中庭」の壁面に、北東隅、北西隅、南東隅、南西隅にそれぞれ、2,3,1,4号の逆T字型の推定3tに達するであろう巨石をもちいた記念碑が据え付けられたことである〔Niederberger1996,p.97〕。これらの記念碑には辰砂を含む赤い顔料が塗られ〔 Martínes 2001,p.200,Niederberger1996,p.97〕、オルメカ様式独特の口を「へ」の字にして、上下の顎から牙を生やし、胸に「X」字の「紋章」をつけ、つりあがったアーモンド状もしくは「水滴」状の目を持つ様式化したジャガー神の顔を刻んでいる。ジャガー神は、たいまつ状、もしくは植物状のものを両手に持っている。
半地下式「中庭」の内部には、7×3mの小規模な建造物が平行してならび球戯場であったと考えられている。春分の日になると北東の石彫、すなわち2号記念碑と南西の石彫(4号記念碑)の影が日の出と日没時に球戯場の中央部に伸びるように配置されている。
この4つの石彫と半地下式「中庭」については、4基の石彫は、マヤ文明に先行して世界の四隅を表す擬人化された山で、世界を担う神々であるとともに、四柱の対立している神々であって、神格化された球戯者として太陽の運行を支配し、再現すると考える研究者もいる〔 Martínes 2001,p.200, Niederberger1996,p.99,Reily1994〕。
半地下式「中庭」のある建物の南側中央には対になる階段があり、東西方向へ降るようになっている。その階段を降り切った位置には両脇にいわゆる「炎の眉」のモチーフをもつジャガー神と推察される猫形神の頭部がつけられた欄干(親柱)がある。
なお、この時期のRecinto複合の北側には、平石で3号建造物が造られている。
II期にはA群の西側の谷部分に築かれたわき水や山から流れてくる水をためるダム様の構築物が造られた〔 Martínes 2001,p.200, Niederberger 1996,p.99〕。このダム様の施設の近くからは墓が発見されており、玄室にはすでに疑似アーチの技術が用いられていた〔 Martínes 2001,p.200〕。このダム様の施設につながるように幅70-90cm、深さ0.9-1.5mの水路が、高さ1.2-1.9m、幅50-75cm、厚さ20-40cmの石灰岩のブロックで築かれ、蓋石がされた。この水路の長さは100mに及んだ。この水路の用途は、農耕地の灌漑のためと考えられている。
III期は、紀元前800年から同600年頃であるが、III期とIV期を細分する場合は、III期を-790±42BPのサンプル年代により、紀元前800年から同700年とし、IV期を、-683±69BP、-610±12BPのサンプル年代から、紀元前700年から同500年に位置付ける。本稿では前者の考えにしたがうものとする。
III期の建造物は、加工をあまりほどこさない粗製の石材が多用されたことに特徴がある。A群の境界部分に6基の建造物が造られ、Recinto複合の中心部分は、II期の建物の壁面を利用したテラスにされ、北側に6×55m増築された。このテラスの壁面にはレリーフが施されているのが確認できる。東側と西側には、なにも刻まれていない石ブロック様の岩が石碑のように立てられ、その「石碑」の前には、それぞれガマガエルを刻んだ石彫(祭壇)が置かれている。この「石碑」と祭壇の組合せは、イサパやさらに後の古典期マヤにつながると考える研究者もいる。これを裏付けるかのようにイサパやグアテマラ高地との関連性をうかがわせる人頭像がテラス壁面にとりつけられている〔マルテイネス・ドンファンは、「モンテ・アルトアバフ・タカリクと一定の親縁性を感じさせる」とする(Martínes 2001,p.201)。〕。
西側の「石碑」の北側と南側から成人1体、子ども4体の埋葬が検出されている。成人の埋葬は土器1点を伴っていた。子どもの埋葬には、真珠ガキでつくられた幾何学的な装飾品が伴い、近くにある犬の埋葬にも同様な装飾品が伴っていた。また、子どもの埋葬のうち1体に接して、肉食獣の遺骸が2体発見された。
拡張部分の東側には、II期の建造物を覆って24.6×19.5mで高さ2.5mに達する3号建造物がII期のダムにつながる水路を覆い、かつその水路の一部からもってきたと推察される巨石ブロックをもってきて築いている。V字の両脇に3個の円形石塊を置き、長い石ブロックでV字をつくり、その上に3個の円形石塊を置く。6.0×30cmの壁龕も設けられた。この3号建造物は2号建造物と対になって球戯場になっている〔 伊藤2011,p.143〕。
II期に築かれた巨大な灌漑水路の近くに、II期とは異なった大きさや形の石ブロックを用いて2つのピラミッド状構築物が築かれた。「ピラミッド」の壁面に用いられた石ブロックには棒状のものと斑点もしくは円形のものがある。また石ブロックを二重のV字状にならべており、これはタバスコ州ラ・ベンタをはじめとし、ゲレロ州ではチャルカツィンゴにもみられるオルメカ遺跡の建造物で頻繁にみられるもので、大地と水を象徴するガラガラヘビに関連するモチーフとみる研究者も多い〔 Martínes 2001,p.201〕。
またIII期には、Recinto複合の北側900mの地点に、南北78.3mに達する大規模な球戯場が造られたことも確認されている〔 Martínes 2001,p.201〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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