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翟真(てきしん、拼音:Dí Zhēn、? - 385年)は、五胡十六国時代の丁零族の首長。翟斌の甥。 ==生涯== 384年7月、翟斌およびその弟の翟檀,翟敏が慕容垂に殺されると、翟斌の兄の子である翟真は夜に営衆を率いて北の邯鄲に奔走した。翟真は兵を引き連れて鄴に戻り、前秦の苻丕と内外で呼応しようとした。しかし、後燕太子の慕容宝が冠軍大将軍の慕容隆とこれを撃破したので、翟真は邯鄲に逃げ帰った。 8月、翟真が邯鄲から北走したので、慕容垂は太原王の慕容楷,驃騎大将軍の慕容農に騎馬を率いて追撃させた。両者は下邑で戦い、翟真が勝利した。 10月、翟真は承営に在って、公孫希,宋敞遙と首尾となった。長楽公の苻丕は宦者冗従僕射の清河光祚を遣わし、将兵数百を中山に赴かせて翟真と結んだ。また、陽平太守の邵興を遣わして数千騎を率い、冀州の故郡県に召集し、光祚と襄国で会した。この時、後燕軍は疲弊しており、前秦の勢いは復振していたので、趙郡人の趙粟らは柏郷で兵を起こして邵興に応じた。後燕王の慕容垂は冠軍大将軍の慕容隆,龍驤将軍の張崇に邵興を撃たせるべく、驃騎大将軍の慕容農と合流させた。慕容隆は邵興と襄国で戦い、これを大破した。邵興は広阿まで逃走したが、慕容農と遭遇して捕えられた。光祚はこれを聞き、鄴に逃げ帰った。慕容隆は趙粟らを撃破し、冀州の郡県は再び後燕に従った。独孤部の劉庫仁は公孫希がすでに平規を破ったことを聞き、大挙兵して長楽公の苻丕を救おうと、雁門,上谷,代郡の兵を発し、繁畤に駐屯した。時に、劉庫仁の所にいた慕輿文,慕輿常の2人は三郡の兵が遠征に嫌気がさしていることを知り、造反して劉庫仁を夜襲して殺害し、その駿馬を盗んで後燕に奔走した。これを聞いた公孫希の衆は動揺して自潰したので、公孫希は翟真の所へ奔走した。 11月、後燕の慕容農は信都の西から翟真の従兄である翟遼を魯口で撃ち、これを破った。翟遼は退いて無極に駐屯し、慕容農は蒿城に駐屯してこれに迫った。 12月、後燕の慕容麟,慕容農は翟遼を襲って大破し、翟遼は単騎で翟真の所へ奔走した。 385年2月、慕容農は兵を率いて慕容麟と中山で合流し、共に翟真を攻めた。翟真は逃走し、その衆は門を争い、遂に承営外郭で討伐された。死者は大半におよんだ。 3月、翟真は中山を夜襲したが、楽浪王の慕容温によって撃破され、これ以降襲撃をしなくなった。 4月、翟真が承営から行唐に移ると、翟真の司馬である鮮于乞は翟真および諸翟を殺し、自ら立って趙王となった。営人は共に鮮于乞を殺し、翟真の従弟である翟成を立てて主とした。しかし、その衆の多くは後燕に降り、翟真の子である〔『資治通鑑』には「翟真の従兄」とある。〕翟遼は黎陽に奔走した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「テキ真」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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