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UTの愛称で親しまれている。ランドグラント大学に指定されている。オークリッジ国立研究所とも教育および学術研究面で提携を行っている。 == 歴史 == テネシー大学の母体となったのは、南西部準州の州都ノックスビルでの会合の結果、1794年9月10日に創設された大学である。この大学は、準州の知事ウィリアム・ブラウントにちなみブラウント大学(Blount College)と名付けられた。続く13年間、ブラウント大学は少ない学生数と教授陣でかろうじて経営を続けた。1807年にブラウント大学は東テネシー大学(East Tennessee College)と改名したが、1809年に同校唯一の教授を兼ねていた初代学長が死去すると一時的に閉校した。東テネシー大学は1820年に再び開校し、1840年には総合大学(East Tennessee University)に昇格した。 1861年にテネシー州は合衆国から脱退してアメリカ連合国に加入したが、東部テネシーには脱退に反対する住民も多かったため、テネシー大学の学生と教授は開戦とともに各自合衆国軍(北軍)か連合国軍(南軍)に志願し、東テネシー大学はほとんど壊滅しかけた。砲撃でキャンパスは損害を受け、大学の校舎は両軍に接収され、野戦病院となったこともあった(ノックスビル方面作戦も参照)。1865年に就任した学長は合衆国寄りであったため、合衆国連邦政府から18,500ドルの復興費用を取り付けることができた。 南北戦争が終わると、テネシー州政府は東テネシー大学を、連邦の公有地を州政府に割譲し、農工業の教育および学生の軍事訓練に役立てることを定め、1862年に可決されたモリル・ランドグラント法の対象とした。この結果、東テネシー大学はランドグラント大学となった。1879年にはテネシー大学と改名し、1893年には初めて女子学生が入学できるようになった。 1952年、連邦地方裁判所の命令により、アフリカ系アメリカ人が初めて大学院とロースクールへの入学を許可された。1954年には黒人の学生に初めて修士号が贈られ、1959年には黒人の学生に初めて教育学博士号が贈られた。学部に黒人の学生が初めて入学したのはそれより後の1961年であり、1964年には初めて黒人の教官が任官された。テネシー大学での人種の統合は比較的順調に進み、黒人の学生は学内よりも学外の飲食店や娯楽施設で不自由を強いられることが多かったが、1950年代と1960年代のテネシー大学とノックスビルは南部の他の大学よりも人種間のトラブルにみまわれることが少なかった。 1968年にはテネシー大学の再編があり、ノックスビルのキャンパスを旗艦校およびメンフィスのテネシー大学医療科学センター、マーティンのテネシー大学マーティン校、タラホーマのテネシー大学宇宙研究所、その他ノックスビルにある獣医学部、農業研究所、公共サービス研究所から成るテネシー大学システムの本部と定めた。翌1969年にはチャタヌーガのテネシー大学チャタヌーガ校がテネシー大学システムに加わった。1971年から1979年にかけてナッシュビルにもキャンパスが存在したが、1979年に閉校を命じられ、テネシー州立大学と統合された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「テネシー大学」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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