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ディアフィールド奇襲[でぃあふぃーるどきしゅう]
ディアフィールド奇襲(ディアフィールドきしゅう、Raid on Deerfield)は、アン女王戦争中の1704年2月29日、率いるフランスとインディアンの部隊が、マサチューセッツ湾植民地の、イングランド系住民の村を夜明け前に襲って、一部を焼き、56人の住民を殺害した事件である。 フランスと、インディアンの諸部族から成る部隊には、約300人のもいた。彼らはかつてディアフィールドに住んでいた。奇襲部隊の隊員構成があまりにも多岐にわたっていたため、村には侵入したものの、奇襲達成とまでは行かなかった。防御を固めた家の人々は、援軍が来るまで侵入者たちを寄せ付けなかった。100人以上の人々が捕虜となり、村の4割の家が破壊された。 この事件は、アメリカ開拓の物語の一部として不屈のものとなった。主に、捕虜の一人で、の証言によるところが大きい。ウィリアムズと家族とは、ヌーベルフランスまで遠い道のりを歩くことを強いられ、幼い娘のユーニスは、モホーク族の家の養子となった。ユーニスはモホークの習慣を身に付け、モホーク族の男と結婚した。ウィリアムズの証言"The Redeemed Captive"(贖われし捕虜)は1707年に出版され、ニューイングランド植民地で好評を博した。 ==奇襲に至るまで== 現在のマサチューセッツ州を流れているコネチカット川中流の流域に、ヨーロッパからの入植者が定住しはじめたころ、この地域はアルゴンキン族の一派、ポコムトゥク族が住んでいた。現在のマサチューセッツ州ディアフィールドに当たる地域である〔Melvoin, pp. 26–29〕 。1660年代の初期、ポコムトゥク族は、好戦的なモホーク族との戦いによって散り散りになり〔Melvoin, pp. 39–47〕、1665年に、マサチューセッツの東にあるデダムの人々が、ここの土地を支給され、法的に適正かどうか、あやふやではあったものの、様々なポコムトゥク族の人々から土地の権利を手に入れた。この村は、当初はポコムトゥクと呼ばれていたが、後にディアフィールドという名前になり、1670年代のはじめごろにはこの名が定着した〔Melvoin, pp. 52–58〕。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ディアフィールド奇襲」の詳細全文を読む
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