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ディエゴ・コロン・イ・モニス・ペレストレーリョ(、 1474年?, 1479/1480年? - 1526年)は、第2代インディアス提督、第2代インディアス副王、第3代インディアス総督。クリストーバル・コロン(クリストファー・コロンブス)と妻フィリーパ・モニス・ペレストレーロ(Filipa Moniz Perestrelo)の長子であり、1479/1480年にポルトガルのポルト・サント島で生まれたとも、1474年にポルトガルのリスボンで生まれたともいわれている。1526年2月23日ないし2月26日に、スペインのラ・プエブラ・デ・モンタルバン(La Puebla de Montalbán)で死去した。 ディエゴ・コロンは成人後の人生のほとんどを、父が探検の恩賞として与えられ1500年に剥奪された、様々な称号や特権の回復をするために費やした。アラゴン国王フェルナンド2世の従兄弟である第2代アルバ公爵ファドリケ・アルバレス・デ・トレド(Fadrique Álvarez de Toledo y Enríquez)〔同名の第4代アルバ公爵ファドリケ・アルバレス・デ・トレド(1537年 - 1589年)とは別人。〕の姪、マリア・デ・トレド・イ・ロハス(María de Toledo y Rojas)との結婚は、ディエゴがこの目的を追求する上で大いに役立つことになった。 == 生涯 == ディエゴ・コロンは、父が最初の航海に出た1492年に、スペイン宮廷の小姓(ペイジ)となった。ディエゴは、母を早く亡くしたが、父コロンブスの後添えとなった愛妾ベアトリス・エンリケス・デ・アラーナ(Beatriz Enriquez de Arana)とは諍いのない関係を保った。ベアトリスが生んだ異母弟にエルナンド(Hernando Colón)がいた。 1509年、ディエゴ・コロンは、かつて父がその地位にあったインディアス総督に任じられた。ディエゴは、現在ドミニカ共和国の首都となっているサントドミンゴに、今も残る邸宅「エル・アルカサル・デ・コロン (El Alcázar de Colón)」を建てた。ディエゴは、1511年5月にインディアス副王となり、1518年までその地位にとどまった。総督、副王として統治にあたった期間、イスパニョーラ島を拠点に、キューバ、ジャマイカ、プエルトリコなど他の島々への軍事遠征を積極的に展開した。その後もディエゴは、自らの権力を脅かそうとするものと闘い、回復されないままとなっていた父の様々な特権や称号の回復を求めて闘い続けた。1515年と1523年には国王に自らの主張を訴えたが、要求を実現することはできなかった。 ディエゴの死後、1536年に妥協が成立し、ディエゴの息子ルイス・コロン・デ・トレドがインディアス提督に任じられ、他のすべての権利の要求を放棄する代わりに、年1万ダカットの永代収入、ジャマイカ島(ハマイカ)の領主としての支配権、当時ベラグアと呼ばれていたパナマ地峡における25リーグ(およそ100キロメートル)四方の領地とベラグア公爵の称号、ハマイカ侯爵の称号、ラ・ベガ公爵の称号を獲得した。 ルイスの死後、新世界における地代徴収権、役職、称号の継承は、ルイスの子孫たちの間で紛糾することになった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ディエゴ・コロン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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