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ディック・スレーター(Dick Slater、本名:Richard Van Slater、1951年5月19日 - )は、アメリカ合衆国の元プロレスラー。フロリダ州タンパ出身。 日本では1980年前後の全日本プロレスにおいて、テリー・ファンクの弟分としてベビーフェイスでの人気を獲得したが、アメリカでは "ダーティー" ディック・スレーター("Dirty" Dick Slater)を名乗り、主にヒールのポジションでNWAの南部テリトリーを中心に活動した。 その無鉄砲で荒っぽいファイトスタイルから、"Mr. Unpredictable" または "Mr. Excitement"の異名を持つ〔(日本では「喧嘩番長」と呼ばれた)。私生活でも気性が激しく喧嘩っ早いことで知られており、シューターとして名を馳せたボブ・ループとの私闘などの逸話も残している。リック・フレアーも彼の喧嘩の強さを認めており、ハーリー・レイス、ブラックジャック・マリガン、ワフー・マクダニエル、マッドドッグ・バションらと並んでプロレス界でもトップクラスだったと自著で記している〔リック・フレアー、キース・エリオット・グリーンバーグ共著『リック・フレアー自伝 トゥー・ビー・ザ・マン』P174(2004年、エンターブレイン、ISBN 4757721536)〕。 == 来歴 == === 1970年代 === タンパ大学時代はレスリングとアメリカンフットボールで活躍。フットボールのチームメイトにはポール・オーンドーフもいた〔。マイアミ・ドルフィンズからのオファーもあったが、卒業後はハイスクール時代の友人マイク・グラハムの仲介により、マイクの父エディ・グラハムが主宰する地元フロリダのNWA傘下団体、チャンピオンシップ・レスリング・フロム・フロリダ(CWF)にて1972年にデビュー〔。 ラフファイトを身上とした若手のヒールとして売り出され、1973年10月6日には極道ヒール時代のダスティ・ローデスと組んでマイク・グラハム&ケビン・サリバンからフロリダ・タッグ王座を奪取、翌1974年10月1日にも日系人ヒールのトール・タナカとのコンビで同王座に戴冠した。同年8月、全日本プロレスに初来日している。 1975年からはジム・バーネットが主宰するジョージア・チャンピオンシップ・レスリングに参戦し、ボブ・オートン・ジュニアと喧嘩屋同士のタッグチームを結成、同年6月27日にボブ・アームストロング&ロバート・フラーからジョージア・タッグ王座を奪取した。シングルでも1976年から1977年にかけて、ザ・スポイラー、ミスター・レスリング2号、ポール・ジョーンズらを破りジョージア・ヘビー級王座を再三獲得している。 同時期にセントルイス地区にも出場し、1977年8月13日にジャック・ブリスコを下してミズーリ・ヘビー級王座を奪取。翌1978年2月にテッド・デビアスに敗れるまで、NWA世界ヘビー級王座への登竜門といわれた同タイトルを半年間に渡って保持し〔、次期NWA世界王者の有力候補の1人となった。 王座陥落後は古巣のCWFに戻り、1978年から1980年にかけて、ペドロ・モラレス、ジャック・ブリスコ、ダスティ・ローデス、ワフー・マクダニエルらを破り南部ヘビー級王座を通算4回獲得。また、1978年11月8日にはキラー・カール・コックスと組んでミスター・サイトー&ミスター・サトからUSタッグ王座を、1979年1月2日にはジョー・ルダックからフロリダ・ヘビー級王座をそれぞれ奪取している。 1979年はロン・フラーが主宰していたアラバマのサウスイースタン・チャンピオンシップ・レスリングにおいて、5月24日にジェリー・ブラックウェルと組んでボブ・ループ&ボブ・オートン・ジュニアからサウスイースタン・タッグ王座を奪取、10月にも旧友ポール・オーンドーフとのコンビで同王座を再度獲得した。シングルではモンゴリアン・ストンパーやロニー・ガービンとサウスイースタン・ヘビー級王座を争っている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ディック・スレーター」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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