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ディック・ハウザー(Richard Dalton Howser、1936年5月14日 - 1987年6月17日)はMLBで活躍した野球選手、監督。 選手としては内野手(遊撃手)。右投右打。のち監督としてもカンザスシティ・ロイヤルズを率いてにワールドシリーズ優勝を果たす。アメリカ合衆国・フロリダ州マイアミ出身。 == 人物・来歴 == フロリダ州立大学では、遊撃手として2度全米大学選抜チームに選ばれる。カンザスシティ・アスレチックス(にオークランドに移転)に入団し、には新人ながら158試合に出場して打率.280、37盗塁、108得点を記録。新人王投票でも次点につけ、オールスターにも出場した。 だが、以後レギュラーとして起用されたのはクリーブランド・インディアンス移籍後ののみ。この年は全162試合に出場し、打率.256、39盗塁、101得点であった。 にニューヨーク・ヤンキースに移籍し、1968年限りで現役を引退した。 引退後、翌にはすぐにヤンキースのコーチに抜擢され、まで務める。 この間、2回のワールドシリーズ制覇にも貢献。1978年にはビリー・マーチン解任(1回目)後、1試合だけ代理監督を務めている。 は母校フロリダ州立大のヘッドコーチを務める。 にヤンキースの監督に就任。いきなりこの年103勝をあげ、地区優勝を果たすが、ア・リーグチャンピオンシップシリーズでカンザスシティ・ロイヤルズに敗れる。ヤンキースの監督としては、ジョージ・スタインブレナーの干渉を拒否することに成功した数少ない監督の1人であった。 リーグチャンピオンシップシリーズ第2戦で三塁ベースコーチマイク・ファレーロが判断ミス。 1点リードを許している8回表ヤンキースの攻撃で、一塁走者ウィリー・ランドルフが打者ボブ・ワトソンの二塁打で、ファレーロの指示で本塁に突っ込み、タッチアウト。スタインブレナーは激怒し、ファレーロの即時解任を言い渡したが、ハウザーが拒絶。すると、このシリーズの敗退後に、ハウザーを解任した。 翌はヤンキースのスカウトを務めていたが、8月31日に今度は前年のチャンピオンシップシリーズで敗れたロイヤルズの監督に就任。50日間に及ぶストライキでシーズンが中断、二分されたこの年は後期優勝を果たすがディビジョンシリーズでオークランド・アスレチックスに敗れる。 とはいずれも2位に終わったが、に地区優勝。 しかしリーグチャンピオンシップシリーズではデトロイト・タイガースに敗れる。 そして迎えた1985年、91勝71敗の成績で地区優勝を収める。この年から7回戦制となったリーグチャンピオンシップシリーズでは、トロント・ブルージェイズに1勝3敗と追い込まれるが、そこから3連勝してワールドシリーズ進出を果たす。 セントルイス・カージナルスとのワールドシリーズでも、1勝3敗の窮地に追い込まれるが、そこから3連勝してチームを初のワールドチャンピオンに導く。 は、指揮を執るオールスターまでは40勝48敗。アストロドームで行われたオールスターではア・リーグを3-2の勝利に導いた。しかし、試合前から体調不良を感じていて、翌日脳腫瘍の診断を受け入院。手術を受け、残り試合は三塁コーチのマイク・ファレーロが指揮を執ることとなった。 のスプリング・トレーニング(日本でいう春季キャンプに相当)には復帰したが、2月下旬の診断でがんへの転移が見つかり、監督を辞任。ビリー・ガードナーが後任監督となったが、次のオールスターを見ることなく6月17日にカンザスシティで死去。51歳没。亡骸は故郷フロリダに葬られた。ロイヤルズは半旗を掲げ、選手・関係者は亡き監督に黙祷を捧げた。 同年7月3日、背番号「10」はロイヤルズの永久欠番となった。また、大学野球の最優秀選手に贈られる賞が「ディック・ハウザー・トロフィー」と名付けられ、母校フロリダ州立大も球場名にハウザーの名を冠し、ブロンズの胸像を設置して、故人の業績を称えている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ディック・ハウザー」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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