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ベルリナーFCディナモ()は、ドイツ、ベルリンを本拠地とするサッカークラブ。冷戦期の東ドイツにおいてシュタージ(国家保安省。東ドイツの秘密警察)の支援を受け、審判に圧力を掛け試合結果を不正に操る事などで悪名高く忌み嫌われた存在であった。 == 略歴 == ===シュタージの支援=== クラブは1953年3月27日に「SVディナモ」として創立された。同年にドレスデンを本拠地とするディナモ・ドレスデンが各地の有力選手を集めDDRオーバーリーガ(東ドイツ1部リーグ)を制すると、その事を快く思わなかったシュタージ長官のエーリッヒ・ミールケは1954年10月1日にディナモ・ドレスデンから選手を大量に引き抜きクラブを再編、「SCディナモ・ベルリン」と改称した。この強引な補強により1957年に2部リーグへ昇格、翌年には1部リーグ(DDRオーバーリーガ)へ昇格。1959年にFDGB Pokalを制し初タイトルをもたらした。 1966年1月15日に従来の複合型スポーツクラブから独立し「BFCディナモ・ベルリン」と改称した。これには長年低迷を続ける東ドイツ代表の強化には選手の集中強化しかないという結論に達した東ドイツサッカー協会の思惑もあった。またベルリンの他にドレスデン、ライプツィヒ、イェーナ等、国内の11クラブが同じ様に独立したサッカークラブとなり「特別強化クラブ」へ指定された。 この狙いは見事に嵌り東ドイツ代表は1974年の西ドイツW杯ではベスト8進出を成し遂げた。 またクラブでは1970年代にディナモ・ドレスデンが5度の東ドイツリーグ制覇を果たしたり、1.FCマクデブルクが1974年のUEFAカップウィナーズカップで優勝する等、一定の成果を収める様になった。しかしディナモは一つのタイトルも獲得する事は出来ず蚊帳の外に置かれた状態であった。 この状態に業を煮やしたミールケは1970年代後半に入ると審判に圧力を掛けるなど影響力を最大限に行使する様になった。そして優位性を確実にする為のあらゆる不公正で歪んだジャッジによって援助されたクラブは1979年から1988年までリーグタイトル10連覇という驚異的な記録を達成した。しかしこの強引な手法はベルリン市民を始め東ドイツ国民の憎悪の対象となり、試合の際には激しい罵声で迎えられる事となった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ベルリナーFCディナモ」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Berliner FC Dynamo 」があります。 スポンサード リンク
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