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ディミトリエ・カンテミール : ウィキペディア日本語版
ディミトリエ・カンテミール

ディミトリエ・カンテミールDimitrie Cantemir, 1673年10月26日フシ南部シリシュテニ(現ディミトリエ・カンテミール) - 1723年)は、モルダヴィアルーマニア)生まれの文人、学者で、モルダヴィア公(在任1693年3月 - 4月、1710年11月 - 1711年7月)。
== 生涯 ==
タタール系の血を引くモルダヴィア貴族(ボヤール boiariカンテミール家の出身で、父コンスタンティン・カンテミールと兄アンティオフ・カンテミールはモルダヴィア公を務めた有力者であった。ディミトリエはモルダヴィアのヤシで言語、文学、歴史の教育を受けた後、1688年から22年間をイスタンブルで過ごした。イスタンブルではスルタン・アフメト2世に才能を愛され、東洋の諸言語と文化、音楽を学んだ。
1710年、兄アンティオフの跡を継いでモルダヴィア公に任命されイスタンブルを離れるが、翌1711年に始まったロシアとオスマン帝国の戦争においてオスマン帝国を裏切り、ロシアのピョートル1世に降伏した。しかし、この戦争はピョートルの大敗に終わり(プルート川の戦い)、モルダヴィアを含めた占領地はオスマン帝国に奪還されてしまったため、カンテミールはロシアに亡命生活を余儀なくされた。カンテミールはロシア貴族の待遇を受けて(公爵・宮廷顧問官)余生を送り、1723年にハリコフで亡くなった。
最初の妻カッサンドラ・カンタクゼネとの間に二男一女が、2番目の妻アナスタシヤ・トルベツカヤとの間に一女があった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ディミトリエ・カンテミール」の詳細全文を読む



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