翻訳と辞書
Words near each other
・ ディーニュ=レ=バン
・ ディーネット
・ ディーノ
・ ディーノ・206
・ ディーノ・206/246
・ ディーノ・208/308GT4
・ ディーノ・246
・ ディーノ・カサレス
・ ディーノ・カザレス
・ ディーノ・グランディ
ディーノ・コンパーニ
・ ディーノ・ザンデグー
・ ディーノ・シュペハル
・ ディーノ・ジュルビッチ
・ ディーノ・ゾフ
・ ディーノ・デ・ラウレンティス
・ ディーノ・デ・ラウレンティース
・ ディーノ・フェラーリ
・ ディーノ・ブッツァーティ
・ ディーノ・リージ


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

ディーノ・コンパーニ : ウィキペディア日本語版
ディーノ・コンパーニ

ディーノ・コンパーニ(Dino Compagni、1255年 - 1324年2月26日)は中世イタリアの商人・政治家・年代記作者。
==生涯==

フィレンツェのポル・サンタ・マリア組合に登録される商人で、名門市民の家に生まれる。青年時代は当時の風習に従ってラテン語スコラ哲学の初歩、プロヴァンス語フランス語を習得した。当時は清新体の詩人の一人としてグイド・カヴァルカンティダンテ・アリギエリチノ・ダ・ピストイアなどと並び称される。
1280年の組合名簿に初めて名前が登場し、1320年まで記載されている。1282年・1286年・1289年・1291年・1294年・1294年に組合理事に選任された。1282年には25歳の若さで市政改革委員(6名)の一員に抜擢され、代表委員制(Priore)の創設に参画している。以来、市政顧問(Savio)としてフィレンツェ政界に重きをなし、1294年には法制改革委員、1390年には税制改革委員に指名されている。
ディーノの政治活動で最も重要なのは、2度の代表委員(1289年4月15日 - 6月15日、1301年10月15日 - 11月7日)と「正義の旗手 Gonfaloniere di Giustizia」(1293年6月15日 - 8月15日)就任である。当時フィレンツェではチェルキ家を中心とする白派(Bianchi)とドナーティ家を中心とする黒派(Neri)の抗争が激しくなり、それぞれの党派が国外の教皇派と皇帝派に結びつく過程にあった。1293年にはジアノ・デルラ・ベルラ(Giano Della Bella)により「正義の法令 Ordinamenti di giustizia」が発布され、封建貴族が集合していた黒派に打撃を与えており、ジアノはディーノの友人であった。しかしディーノ自身は公正な愛国者として、自派にとって有利な状況よりも両党派の和解を願った。結果として黒派に与していた教皇ボニファティウス8世シャルル・ド・ヴァロワに乗じられ、「剣を磨くべき時に和平交渉の意志を相手に伝えて」しまい、それは白派の敵に弱気と恐怖の行動と受け取られる。1301年シャルルは1200騎を連れてフィレンツェに入城し、黒派の巨頭コルソ・ドナーティはフィレンツェの市政を奪取した。その年の11月に代表委員は総辞職し、公文書に再び名前の挙がることはない。白派は数年にわたってフィレンツェから粛清・追放されるが、ディーノは前代表委員の特権を楯にとり、放逐を免れた。以後は私人としてのみ半生を送り、商事会社・問屋の所有者として羊毛組合に登録されている。およそ70歳でこの世を去り、サンタ・トリニタ教会に葬られた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ディーノ・コンパーニ」の詳細全文を読む



スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.