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デイビッド・ランバート・ラック(David Lambert Lack、1910年7月16日-1973年3月12日)はイギリスの生態学者、鳥類学者〔Charles H. Blake (1974). Obituary, ''The Auk'', 91 (1) : 239 Obituary 〕。群選択に反対し、個体選択の重要性を主張した初期の一人で、進化学へ生活史戦略と生態学的アプローチを持ち込んだ最初の一人でもある。 == 生い立ち == ラックはロンドンに生まれ、ノーフォーク州のグレシャム・スクールに通った後、ケンブリッジ大学のモードリン・カレッジで自然科学を学んだ。彼の父、ハリー・ランバート・ラックは軍医で、後にイギリス医師会の会長を務めた〔''Harry Lambert Lack, MD FRCS'', obituary in ''Journal of Laryngology & Otology'' (Cambridge University Press, 1943), 58, pp 135-136〕。ハリーはノーフォークの農家で育ち、ロンドン王立病院で外科医となった。母キャサリンはスコットランド人の父とイギリス・インド軍の中尉の娘の間に生まれた〔Thorpe, W. H. (1974) David Lambert Lack. 1910-1973. ''Biographical Memoirs of Fellows of the Royal Society.'' 20: 271-293〕。 ラックは15歳までロンドンのデボンシャープライスの邸宅で暮らした。9歳までには多くの鳥類の名前を覚え、観察記録を付けた〔。 ケンブリッジを卒業するとダーリントンホール校の生物学教師となった。1938年の夏に休暇を取り、趣味であった鳥の行動を研究するためにガラパゴス諸島へ渡った。翌1939年の4月から8月まではカリフォルニア・アカデミーオブサイエンスとアメリカ・ニュージャージー州のエルンスト・マイアの家で過ごした。1939年に戦争が始まるとイギリスに戻った〔Provine, William B, 1986. ''Sewall Wright and evolutionary biology''. Chicago. p406〕 。 第二次大戦の間、ラックはイギリス軍のレーダー部隊に勤務した。戦争が終わると高校教師へ戻らず研究生活を選んだ。ガラパゴス諸島での研究が認められ、オックスフォード大学の野外鳥類研究所の所長となった。戦争中の経験は、のちに鳥の渡りの研究にレーダーを使うアイディアを生み出した。1948年にケンブリッジ大学モードリン・カレッジで理学博士号を取得した。 1973年にラックはガンのために死去した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「デイビッド・ラック」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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