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デッティンゲンの戦い(ディッティンゲンのたたかい、)は、1743年6月27日に行われたオーストリア継承戦争における会戦である。イギリス、オーストリアの連合軍とフランス軍が戦い、連合軍が勝利した。イギリス国王が戦闘に参加した最後の戦いとして知られる。 == 背景 == 1742年、首相ロバート・ウォルポールの退陣後、大陸の継承戦争介入を決定したイギリスだったが、ウォルポール時代に陸軍がすっかり縮小されてしまっていたために部隊の構成にはかなりの手間を要して、兵士は訓練不足で戦列を組むのに時間がかかる、馬も調教不足で乗り手を振り落とすという状態であった。それでもなんとかオステンドに部隊を上陸させ、ハノーファーやヘッセン=カッセルの兵と合わせて国事軍と名づけ、指揮官にはステア伯を任じた。 その頃、フランス軍はバイエルンを支援するためにその軍を遠くベーメンやバイエルンまで進出させていたが、プロイセンにシュレージェンを割譲して北での戦争を切り上げたオーストリアの反攻によって苦戦に陥っていた。ベーメンではブロイ軍および増援のメイユボアの軍が退けられ、プラハのベル=イルは包囲された末に苦難の雪中撤退を行って多くの凍死者を出しつつもプラハを脱出した。 1743年春、このような状況から、イギリス軍はオーストリア軍の要請に応じ、軍勢をネーデルラントからドイツへ進出させることにし、ヘッセン=カッセル軍を残してイギリス・ハノーファー軍とオーストリア軍の一部でバイエルンを目指して東進を始めた。あわせて国王ジョージ2世は自ら戦場に出ることにした。一方、フランスでは北でネーデルラントを睨んでいたノアイユをライン川左岸に集めた軍の指揮官に据えて、三度ドイツに軍を派遣してなんとかバイエルンを守ろうとしたものの、オーストリア軍はバイエルンに再侵攻、ゼッケンドルフのバイエルン軍を排除してこれを占領するにいたった。神聖ローマ皇帝カール7世はミュンヘンから逃亡、ブロイはバイエルン防衛を断念して西に撤退した。 オーストリアは連合軍をネッカー川まで一気に南進させ、そのうえでバイエルンに向かうべきだという意見だったが、イギリスはプロイセンのハノーファー侵攻の可能性に備える必要を感じており、より北のマイン川右岸で留まった。この選択はノアイユのフランス軍に自由な東進を許すものであった。連合軍とフランス軍はそれぞれマイン川の北と南で互いを意識しながら東進して、ノワイユはブロイ軍を収容することに成功した。フランス軍が転進して西に撤退を始めると、イギリス軍もフランス軍を追って西に転じた。 6月19日、アシャッフェンブルクに増援と息子のカンバーランド公ウィリアム・オーガスタスを連れて到着したジョージ2世を迎えてイギリス軍の士気は大いに上がったが、その頃連合軍にとって深刻な事態が生じつつあった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「デッティンゲンの戦い」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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