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デッドボール時代 (The dead-ball era) とは、メジャーリーグベースボールの前後からまでをさす野球用語である。「デッドボール」とは当時使われていた「飛ばないボール」のことを指す(死球を「デッドボール」と呼ぶのは和製英語)。 この時代の始まりを野球の起源にもとめることもあるが、終わりは1919年のベーブ・ルースというパワーヒッターの登場で一致している。この最後の年にルースはアメリカンリーグ記録となる29本の本塁打を放っているが、これは当時としては華々しいまでの偉業だった。 飛ばないボールの時代の特徴は低い得点数と本塁打の少なさである。メジャー史上最もリーグ得点率が低かったのはだが、この年は一試合あたりのチーム得点が平均で3.4しかなかった。しかしその後ルールが改正されるとともにベーブ・ルースを始めとした強打者が出現したことであっけなくデッドボールの時代は終った。第一次世界大戦に勝利し狂騒の20年代を過ごすことになるアメリカ合衆国の野球界では、本塁打が量産されるライブボール時代が始まった。 == 飛ばないボールの時代の野球 == 飛ばないボールの時代の野球では今よりずっと作戦がものを言った。つまり今日でいうスモール・ベースボールやインサイド・ベースボールというプレースタイルがとられていた。そのため盗塁やヒットエンドランなどのプレーが本塁打よりもはるかに重視され〔Daniel Okrent, Harris Lewine, David Nemec (2000) "The Ultimate Baseball Book", Houghton Mifflin Books,ISBN 0618056688 , p.33 〕、そしておそらく必然的にスピード重視の戦略が取られた。飛ばないボールの時代ほど盗塁が多かった時期は存在しないほどであったが、それはこの頃の野球チームが本塁打の出にくい広大な球場でプレイしていた上、現代の野球と比べ、この頃のボールは酷く使い回され、構造上も飛ばすのには向かない「デッドボール」だったからである。塁を得るためには、ボルチモア・オリオールズが1890年代に編みだしたボルチモア・チョップのようなパワーを必要としない打法が有効だった〔Burt Solomon (2000) "Where They Ain't: The Fabled Life And Untimely Death Of The Original Baltimore Orioles", Simon and Schuster, ISBN 0684859173 Excerpt 〕。典型的な展開は、走者を出したならば盗塁か犠打をして二塁、三塁と進め、ヒットエンドランなどで本塁に返すというもので、前世紀のスタイルを引きずっていた。本塁打を出す前に「走者を溜める」といった考えが登場するのはずっと後のことである。 この時代にはパワーよりスピードが求められたことを示す例はいくらでも見つかる。からまでの間で、本塁打王のホームラン数がひと桁だった年が13回あり、20本以上を打っている年は4回しかない。一方で最多三塁打の打者が20本以上打った年は20回ある。あまり知られていないがピッツバーグ・パイレーツのチーフ・ウィルソンがに打ち立てたシーズン36本の三塁打という(おそらく不滅の)記録、通算309本の三塁打というサム・クロフォードの記録もこの時代に作られた〔Year-by-Year League Leaders & Records , Baseball-Reference.com〕。 スピードがあったチームでも、飛ばないボールの時代には得点が伸び悩んだ。メジャーリーグのシーズンチーム打率はナショナルリーグで.239から.279、アメリカンリーグで.239から.283という分布だった。このようなパワー不足の野球では投手が長打を恐れずに打者を攻められたため、塁打率や出塁率も低かった。この時代の「どん底」とされるのは、あたりで、メジャーリーグ全体の平均打率が.239、長打率が.306、防御率が2.40を切っている。この年のシカゴ・ホワイトソックスは年間で3本塁打しか打っていないが、シーズンを88勝64敗で終え、ペナント制覇にも届きかけていた〔League Index Season to Season League Statistical Totals , Baseball-Reference.com〕。 ロースコアの試合には不満の声があがり、ボールを変えて状況を改善しようという動きが起こった。にはベン・シャイブがコルクを芯にしたボールを開発し、それをアメリカン・リーグの公式球を納入していた会社が販売した。これが規格化されるのはだが、その後の本塁打の数をみても新しいボールの効果は明らかだった。のアメリカン・リーグの平均打率は.243だったが、翌には.273に上がった。ナショナル・リーグも、1910年の.256から1912年には.272と急上昇をみせた。タイ・カッブが最高の成績を上げたのもである。カッブはこの年に248本のヒットを打ち、打率が.420だった。ジョー・ジャクソンは同じ年に.408で、カッブは翌1912年に.410を記録した(からまでに出現した4割打者はこれで全てである)。しかしには、マイナーリーグにいたラス・フォードの「偶然の発明」にも助けられて、投手が優位を取り戻すようになる。フォードはあるときたまたまコンクリートの壁で傷つけてしまったボールを投げた。するとボールは打者に近づくにつれて急激に沈んだことに彼は気づいたのである。こうしてエメリーボール(:en: emery pitch)が生まれた。これによって、すでに常態化していたスピットボールに加えて、投手はもうひとつ打者を抑える武器を手にした。その背景には、試合を通じて同じボールが使われ、交換されることはほとんどなかったという事実がある。そして試合が進めば、ボールはどんどんこすられて変化が増すために打つことはますます難しくなった。そして汚れがついてボールを視認することも困難になった。には得点は勢い1911年以前の水準に戻り、それが1919年まで続くことになった〔Timothy A. Johnson (2004) "Baseball and the Music of Charles Ives: A Proving Ground", Scarecrow Press, ISBN 0810849992 Excerpt pg. 28 〕 。 こういった試合の傾向は選手のニックネームに皮肉な運命をもたらした。飛ばないボールの時代に非常に高い成績を挙げた選手の一人であるフランク・ベイカーは、「ホームラン」ベイカーとあだ名されたが、ベイカーは1911年のワールドシリーズで2本塁打を放っただけでこう呼ばれたのである。ベイカーはアメリカン・リーグで4度の本塁打王に輝き、通算で96本の本塁打を放っているが、キャリア最高の本塁打数は1913年の12本である。 飛ばないボールの時代最高のホームランバッターはフィラデルフィア・フィリーズの外野手ギャビー・クラバスである。クラバスはナショナル・リーグで本塁打王6回を数え、1915年のフィリーズがリーグ優勝を果たしたシーズンには自己最高の24本塁打を放った。また1913年と1914年にはそれぞれ19本塁打を放っている。しかしクラバスがベイカー・ボウルを本拠地にしていたことも大きい。この球場は打者に有利な球場として悪名が高く、本塁から右翼のフェンスまで しかなかった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「デッドボール時代」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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