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デミドフ家 : ウィキペディア日本語版
デミドフ家[でみどふか]

デミドフ家:)は、ロシアの商人、産業資本家、貴族の家系。
== 歴史 ==
始祖のデミド・アントゥフィエフ()はトゥーラ出身の自由民の鍛冶屋であった。その息子(1656年 - 1727年)は武器製造の工場を経営して財産をなし、政府の要請を受けて鋳鉄工場を設立・運営した。彼はピョートル1世大帝の信任を受け、1720年には貴族に列せられた。続く18・19世紀の2世紀間にわたり、デミドフ家の経営する工場はロシアで生産される鉄の大部分を占めた。
ニキータの息子(1678年 - 1745年)は、金、銀、銅などを算出する鉱山の発見と採掘により、父から相続した財産をさらに大きなものにした。彼はシベリアにおける鉱山業の拠点として都市バルナウルを建設させたほか、その建設の意図について様々な議論のあるを建立した。
アキーンフィには3人の息子がおり、長男の(1710年 - 1786年)はを創設するなど慈善事業を熱心に行った。次男の(1715年 - 1761年)の息子(1738年 - 1821年)は、ロシアにおける科学教育の振興に努め、リンネパラスら同時代の第一級の科学者たちと親交を結んだ。彼は1803年にヤロスラヴリに(現在のの前身)を設立し、モスクワ大学博物学を講義するデミドフ講座を開き、ロシア科学アカデミーにロシア語文学に対して与えられる文学賞を創設させた。
アキーンフィの三男(1724年 - 1789年)の息子ニコライ・デミドフ(1774年 - 1828年)は、1812年のナポレオンのロシア侵攻では自らの所有する歩兵連隊を率いて戦い、また鉱山業の経営で財産を増やし続けた。当時の首都サンクトペテルブルクに4つの橋を建設し、従兄のパーヴェル・グリゴリーエヴィチと同じくロシアにおける科学文化の発展に貢献した。1798年にはロシア皇帝パーヴェル1世から正教系聖ヨハネ騎士団総長の職を譲られた。1827年、ニコライはイタリアトスカーナ大公レオポルド2世により伯爵位を授けられた。
ニコライの長男パーヴェル・ニコラエヴィチ・デミドフ(1798年 - 1840年)は官僚となり、県知事・国家評議会議員などの要職を占めた。そして1831年に諸科学に貢献した人物に与えられるを創設した。ニコライの次男アナトーリー・デミドフ(1813年 - 1870年)は兄と違ってロシア政府には仕えず、西欧の貴族社交界で生涯を送った。彼は1840年にナポレオン皇帝の姪マチルド・ボナパルトと結婚し、彼女との身分の釣り合いをとるという理由でトスカーナ大公からサン・ドナート公爵()の爵位を授かった。アナトーリーには息子が無く、公爵の称号は兄の息子パーヴェル・パヴロヴィチ・デミドフ(1839年 - 1885年)が受け継いだ。サン・ドナート公爵の称号は1943年に男子相続人が絶えると、消滅した。
デミドフ家は他のロシア貴族たちと同じく、第1次世界大戦中に起きたロシア革命によってロシアを追われ、財産と地位を失った。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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