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トゴン・テムル(モンゴル語:、Toγon-Temür、漢字:妥懽貼睦爾、 1320年5月25日 - 1370年5月23日)はモンゴル帝国(元朝)の第15代皇帝(大ハーン)。廟号は恵宗であるが、明朝による追諡である順帝の名称が使用されることが多い。モンゴル語での尊号はウカアト・カアン Uqaγatu Qa'anで、『蒙古源流』『アルタン・ハーン伝』等ではオハート・トゴン・テムル・ハーン Uqaγatu Toγan Temür Qaγan 、トガン・テムル・ウハート・ハーン Toγan Temür Uqaγatu Qaγan と呼ばれている。 至正28年(1368年)に大都を放棄してモンゴル高原に撤退したため、『明史』では1368年に帝位を失い、元は滅亡したとして扱われる。 == 生涯 == === 即位以前 === 父・コシラが暗殺計画を逃れるため中央アジアに滞在した際に、中央アジア北東部のテュルク系遊牧民カルルク部族の族長の娘との間に長男として生まれた。カルルクは本来チンギス・ハーン王家姻族ではないため、モンゴル王族としては母の出自はあまりよくない。 天順元年/天暦元年(1328年)、泰定帝崩御後に発生した内乱の際にはモンゴル高原を経て上都に帰還した父に従い元朝に復帰したが、コシラの急死によりその弟のトク・テムルが文宗として即位すると、文宗の甥であるトゴン・テムルは宮廷から遠ざけられ、はじめ高麗ついで広西に流された。 至順3年(1332年)、文宗が崩御すると皇后ブダシリはその遺志に従いコシラの遺児をハーンに擁立することを提案、大都に留められていたトゴン・テムルの弟イリンジバルが即位したが、わずか2ヶ月で崩御した。トクの即位以来政権を掌握していたエル・テムルは文宗の子であるエル・テグスの即位を計画したが、その母であるブダシリにより固辞され、ブダシリによりトゴン・テムルが広西から召還されることとなった。 エル・テムルにはコシラ毒殺説もあり、既に13歳となっていたトゴン・テムルがハーンに即位すれば、自らの政治的権力が低下することを恐れその即位を妨害、そのためトゴン・テムルが大都に到着した後も約半年間即位は延期され、至順4年(1333年)春、エル・テムルの病死により、ようやく夏に即位することができた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「トゴン・テムル」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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