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トップールの戦い(Battle of Toppur)とは、1617年初頭に行われた南インドのヴィジャヤナガル王国の内乱における戦闘。 ==概要== 1614年にヴィジャヤナガル王国最後の名君ヴェンカタ2世(在位1586 - 1614)が死亡すると、王国の滅亡は秒読みとなっていた。 ヴェンカタ2世の死後、その甥シュリーランガ2世(在位1614)が王となったが、ヴェンカタ2世の息子ジャッガ・ラーヤも王位を宣言して、ヴィジャヤナガル王国では各地の有力者や、ビジャープル王国、ゴールコンダ王国も介入する大規模な内乱が発生した。 この内乱は結局、ジャッガ・ラーヤがビジャープル王国、ゴールコンダ王国の力によって勝利しヴィジャヤナガル王(在位1614 - 1617)となり、シュリーランガ2世とその家族は殺された。 だが、唯一生き延びていたシュリーランガ2世の遺児ラーマ・デーヴァ・ラーヤが1616年末に父の無念を晴らすため挙兵し、タンジャーヴールのラグナータ・ナーヤカという味方を得て、ジャッガ・ラーヤのいる首都ヴェールールへと向かった。ラグナータ・ナーヤカはタンジャーヴールを拠点とするタンジャーヴール・ナーヤカ朝の君主で、かつヴィジャヤナガル王国の有力者であり、かつてはヴェンカタ2世のために忠誠をつくしゴールコンダ王国と戦い、その死後における内乱ではシュリーランガ2世に味方していた。 一方、ジャッガ・ラーヤも同盟者であるビジャープル王イブラーヒーム・アーディル・シャー2世とゴールコンダ王スルタン・ムハンマド・クトゥブ・シャーの援軍を借り大軍を集めて、1617年初頭に両軍は首都ヴェールールの近くトップールで激突した。 この戦いで、ジャッガ・ラーヤの大軍に対してラーマ・デーヴァ・ラーヤの軍は少数だったが、ジャッガ・ラーヤは討たれてしまい、ラーマ・デーヴァ・ラーヤが新たな王(在位1617 - 1630)となった。この戦いの勝利は歴戦の勇士ラグナータ・ナーヤカの奮戦に依るところが大きかった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「トップールの戦い」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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