|
トマス・キャンピオンまたはトーマス・カンピオン(Thomas Campion, 1567年2月12日 ロンドン – 1620年3月1日)はイングランド・ルネサンス音楽の作曲家・詩人・内科医・殺人者。ジョン・ダウランドと並び称されたリュート歌曲の作詞家・作曲家であった。 ケンブリッジ大学ピーターハウス校に学ぶが、学位を取得せずに中退し、1586年にグレイズ・インで法学を学ぶも、出廷経験のないまま1595年に卒業する。1605年2月10日にカーン大学で医学の学位を取得する。 1591年に詩人として最初の詩集を出版。1613年の「挽歌(ヘンリー王太子の早世を悼んで) ''Songs of Mourning: Bewailing the Untimely Death of Prince Henry'' 」は、ジョン・コプラリオによって曲付けされた。数多くの詩集のほかに、詩学論『英語詩芸術論 ''Observations in the Art of English Poesie'' 』(1602年)も上梓し、詩作における韻律の実践について論評している。 キャンピオンは100曲以上のリュート歌曲を(フィリップ・ロセターと共作で)作曲した。これらは、1601年の《エアー集 ''Books of Airs'' 》において出版されたほか、さらに1610年代の4冊の曲集でも発表された。1607年に上演された《ヘイズ卿と花嫁を祝する仮面劇 ''The Lord Hay's Masque'' 》などのマスクも多数発表しており、《サマセットの仮面劇 ''Somerset Masque'' 》は1613年に初演された。リュート歌曲の多くは《淑女たちには用はない ''"I care not for these ladies"'' 》などの抒情詩に曲付けされたものが多いが、一方で中には、《美しい人よ、貴女がそんなに欲しがるのなら ''"Beauty, since you so much desire"'' 》のような卑猥な歌詞を持つものも見られる。1615年に出版された音楽理論書『4声体対位法の新たな方法 ''A New Way of Making Fowre Parts in Counterpoint By a Most Familiar and Infallible Rule'' 』は、1660年になっても版を重ねるほど評価が高かった。 キャンピオンは、1613年9月のトマス・オーヴァーベリー卿の暗殺に連坐したが、嫌々ながら判事を買収したことが明らかにされているように、結局は無罪放免を勝ちとった。 腺チフスのためにロンドンで逝去。 ==参考文献・関連事項== *Husoy, Lance Arthur. ''"Thomas Campion and the Web of Patronage."'' *pdfファイル (英語) 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「トマス・キャンピオン」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Thomas Campion 」があります。 スポンサード リンク
|