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トマス・ダドリー : ウィキペディア日本語版
トマス・ダドリー

トマス・ダドリー(、1576年10月12日 - 1653年7月31日)は、17世紀にマサチューセッツ湾植民地総督を前後4回務めた政治家である。ニュータウン、後のケンブリッジの主要な設立者であり、この町では最初の家屋を建てた。ロクスベリー・ラテン学校を設立するために土地と資金を提供し、1650年に総督を務めていたときにはハーバード・カレッジの新らしい認証書に署名した。ダドリーは敬虔なピューリタンであり、自分の見解に合わない宗教的考え方には反対した。この点に関してジョン・ウィンスロップのようなマサチューセッツ初期の指導者達よりも頑固だったが、ジョン・エンデコットほど対立的ではなかった。
ダドリーは軍人の息子だったが、父はダドリーが若い時に死んだ。ユグノー戦争の時は軍務に就き、その後幾らかの法律に関する訓練を積んで、リンカン伯爵の親類のような仕事を始めた。リンカンの周辺にいた他のピューリタンと共にマサチューセッツ湾植民地の設立組織化に貢献し、1630年にはウィンスロップと共に船で新世界に渡った。植民地では1年間任期の総督を4度務めただけだが、他の権威ある役職を歴任した。
ダドリーの子孫には、初期アメリカの詩人である娘のアン・ブラッドストリート(1612年-1672年)のほか、多くの有名人がいる。20世紀に朽ちてしまったハーバード・ヤードの門の1つはダドリーの名前が付けられ、またハーバードのダドリー・ハウスもその一家の名が付けられたものである。
== 初期の経歴 ==
トマス・ダドリーは1576年10月12日に、イングランドノーサンプトンシャーノーザンプトンに近い村のヤードリーヘイスティングスで生まれた。父はロジャー・ダドリー、母はスザンナ(旧姓ソーン)だった〔Anderson, p. 584〕。父はイギリス陸軍の大尉であり、戦死したと考えられる。1590年のイブリの戦い(ユグノー戦争)で戦死したと考えられたときもあったが〔Jones, p. 3〕、スザンナ・ダドリーが未亡人になったのは1588年以前だったと分かったので、この戦闘の可能性は少ない。1586年のズトフェンンの包囲戦のときに父のロジャーが戦死したとも示唆されてきた〔Richardson et al, p. 280〕。一家はダドリー (イングランド)にあるダドリー城のサットン・ダドリーとの関係を長く主張していた。家の紋章には似た所があるが〔Jones, pp. 3–10〕、共通の先祖がある可能性以上の関係がこれまではっきりと示されたことはない〔〔Anderson, p. 585〕。ダドリーの母はピュアフォイの先祖を通じてイングランド王ヘンリー2世(1133年-1189年)の子孫であり〔Richardson et al, p. 600〕、生まれの良い若者と同様にトマス・ダドリーは貴族の小姓になった。彼の場合は近くにあるアシュビー城のコンプトン男爵ウィリアムの家の小姓だった〔。後にエリザベス1世からの呼びかけに応じて1個中隊を立ち上げ、ユグノー戦争ではフランスのアンリ4世の軍に従軍し、1597年のアミアンの包囲戦に参加していた〔。
ダドリーは陸軍から退役した後、ノーサンプトンシャーに戻った〔Jones, p. 24〕。その後、母の親戚であるオーガスティン・ニコルズ卿の所に事務員として入った〔Kellogg, p. 3〕〔Jones, p. 25〕。ニコルズは弁護士で、後には判事となり、当時多くの判事が収賄など悪事との関わりを疑われていた中で、その正直さが認められていた〔Jones, pp. 25–26〕。ニコルズはピューリタンに同情的でもあった。ニコルズの法律関連の事項やその宗教的見解に触れて、ダドリーはおそらく大きな影響を受けた。1616年にニコルズが急死した後、第4代リンカン伯爵セオフィラス・クリントンの所に入り、伯爵の幾らかの資産を管理する執事を務めた。伯爵のリンカンシャーにある資産は、非国教徒思想の中心であり、ダドリーは伯爵の仕事をするようになった時に、そのピューリタンの美徳を既に認められていた〔Jones, pp. 31–32〕。ダドリーに関するコットン・マザーの伝記に拠れば、ダドリーは伯爵に遺された財政的困難さのある遺産をうまく処理したので、伯爵はダドリーに財政に関する助言を求めるようになった〔Jones, p. 40〕。ダドリーの任務は全て金銭上のものだけでなく、伯爵がセイ卿の娘と婚約するときに重要な役割を果たしたと言われてもいる〔Jones, p. 42〕。1622年、ダドリーはサイモン・ブラッドストリートの援助を得たが、そのブラッドストリートがダドリーの娘に惹きつけられた。この二人はその6年後、娘が16歳になったときに結婚した〔Kellogg, pp. 11–12〕。
ダドリーは1624年から1628年の間リンカン伯爵の任務を外れていた。この期間はその増え続ける家族と共にリンカンシャーのボストンに住み、セントボトルフ教会で教区民になっていたと考えられる。この教会ではジョン・コットンが説教を行っていた。ダドリー家は1628年にリンカンの荘園に戻り、その娘のアンが天然痘に罹ってそこで治療を受けた、とされている〔Kellogg, p. 8〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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