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トマス・ブラムレット : ウィキペディア日本語版
トマス・E・ブラムレット[とますいーぶらむれっと]

トマス・エリオット・ブラムレット(、1817年1月3日 - 1875年1月12日)は、19世紀アメリカ合衆国政治家弁護士であり、1863年から1867年まで第23代ケンタッキー州知事を務めた。南北戦争のさなかにあった1863年に知事に選ばれ、戦争の残り期間からレコンストラクション時代の初めにかけて、ケンタッキー州を指導した。戦争が始まったときは、将来ある政歴を一次止めて北軍に志願し、ケンタッキー第3歩兵連隊を立ち上げて指揮した。1862年、エイブラハム・リンカーン大統領がブラムレットをケンタッキー州の地区検事に指名した。その1年後の州知事選挙では統一民主党の候補者になった。北軍による選挙干渉もあって、ブラムレットは大差で対抗馬チャールズ・A・ウィクリフを破り当選した。しかし、1年も経たないうちに、ケンタッキー州のアフリカ系アメリカ人を徴兵したり、ケンタッキー州民に対して人身保護令状の発行を停止するなど連邦政府の政策もあって、リンカーン政権に対する支持を放棄し、「州をアメリカ連合国の中で血の洗礼を行う」と宣言した。
戦後、ブラムレットは州内の元アメリカ連合国支持者の大半に恩赦令を発行した。アメリカ合衆国憲法修正第14条同第15条の批准に反対し、州内で解放奴隷局を設立することにも反対した。戦争とその後始末に関わらない業績としては、州の負債を減らし、ケンタッキー州農業機械カレッジ(現ケンタッキー大学)を設立したことがあった。知事を退任した後、ルイビルでの法律実務に戻った。ブラムレットは1875年1月12日に死に、ケイブヒル墓地に埋葬された。
== 初期の経歴 ==
トマス・E・ブラムレットは1817年1月3日に、ケンタッキー州カンバーランド郡(現クリントン郡)のエリオットのクロスロードで生まれた〔Allen, p. 106〕。父はアンブローズ・S・ブラムレット大佐、母はサラ(旧姓エリオット)だった〔Harrison, p. 112〕。父はケンタッキー州上院議員を2期、同下院議員を数期務めていた〔。
ブラムレットは法律を勉強し、20歳の1837年に法廷弁護士として認められ、ルイビルで法律実務を始めた〔〔NGA Bio〕。その年9月、最初の妻サリー・トラビスと結婚した〔Powell, p. 56〕。この夫妻には2人の子供が生まれ、トマスおよびコリンと名付けた〔Webb, p. 93〕。
1841年、ブラムレットはクリントン郡を代表してケンタッキー州下院議員に選ばれ、その政歴が始まった〔。1848年、ジョン・J・クリッテンデン州知事がブラムレットを州検察官に指名した〔。1850年に州検察官を辞任し、法律実務に戻り、1852年にはコロンビアに移転した〔。1853年、ホイッグ党公認でアメリカ合衆国議会下院議員に立候補したが、民主党員のジェイムズ・クリスマンに敗れた〔。1856年、ケンタッキー州第5司法地区の判事に選出され、その職を5年間立派に務めた〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「トマス・E・ブラムレット」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Thomas E. Bramlette 」があります。



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