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トミー・ボーリン : ウィキペディア日本語版
トミー・ボーリン

トミー・ボーリンTommy Bolin, 1951年8月1日 - 1976年12月4日)はアメリカ人のロックギタリスト
== 略歴 ==
本名トーマス・リチャード・ボーリン。アメリカ合衆国アイオワ州で生まれる。
12歳からドラムを始め、その後ギターを弾き始める。オルガンも経験していたとされている。
いくつかのアマチュア・バンドを経て、1968年ハードロック・バンドのゼファー(Zephyr)のギタリストとしてプロ・デビューを果たす。3年間在籍した後、エナジーというバンドに移籍。さらにエナジー脱退後の1973年、フルート奏者のジェレミー・スタイグの紹介により、ビリー・コブハムのアルバム「スペクトラム (Spectrum) 」に参加し高い評価を得る。
その後、商業的に成功していたアメリカのバンドジェイムス・ギャング (James Gang) に、ドミニク・トロイアーノの後任として参加。ジェイムス・ギャングの初代ギタリスト、ジョー・ウォルシュの推薦によるものだった。1974年7月にジェイムス・ギャングを脱退した後、セッション活動の傍ら、自身初のソロ・アルバムである「炎のギタリスト(Teaser)」の製作を開始する(同アルバムの参加ミュージシャンにはボビー・バーグ、スタンリー・シェルダン、デイヴィッド・フォスタージェフ・ポーカロフィル・コリンズヤン・ハマーグレン・ヒューズデイヴィッド・サンボーンナラダ・マイケル・ウォルデン等、後年音楽シーンで活躍するメンバーが名を連ねている)。
1975年6月、イギリスのハードロックバンド、ディープ・パープルに、リッチー・ブラックモアの後任ギタリストとして加入。その経緯はドラムのイアン・ペイスの自宅にジョン・ロードが赴いた際に聞いていたビリー・コブハムのアルバム"スペクトラム"収録の、"Quadrant4"でトミーが演奏していた猛烈なギターソロに衝撃を受け、加入を打診したという有名なエピソードがある。アルバム「カム・テイスト・ザ・バンド」(Come Taste the Band)を発表した後ワールド・ツアーにも参加するが、1976年7月にディープ・パープルは解散。
その後は自らのバンドを結成し、2枚目のソロ・アルバム「魔性の目(Private Eyes)」を発表する。
1976年12月4日ジェフ・ベックのツアーの前座として参加していた時、フロリダ州マイアミのホテルにて死去。25歳。
死因は、麻薬の過剰摂取 (オーバードース) であると発表された。麻薬常習者であった彼の身体異常は、ディープ・パープルのツアーの時点で既に表面化しており、ラスト・コンサート・イン・ジャパン (Last Concert in Japan) では(後に東南アジアでの粗悪なヘロインの摂取が原因だと判明する)手と指の麻痺によってボトルネックギターしか演奏する事が出来なかったと言われている。近年ではアルバムの再発などによって再評価する声があるが、当時はこれらの件のために、「ディープ・パープルを解散に追いやった下手くそギタリスト」の烙印を押されてしまう他、ソロアルバムでのジャズとロックの融合もベックが美味しい所を持って行ってしまう等、最近では「悲運のギタリスト」と呼ばれることもある。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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