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トルデシリャス()は、スペイン・カスティーリャ・イ・レオン州バリャドリッド県のムニシピオ(基礎自治体)。 == 地理 == バリャドリッド県の県都バリャドリッドの南西25kmにある。ドゥエロ川沿岸にあるが、河口からトルデシリャスまで航行することはできない。トルデシリャスからは5方向に高速道(4車線)が伸びており、南東へ182km地点にマドリード、南西96km地点にはサラマンカがある。県都バリャドリッドとも高速道でつながっている。鉄道路線はサラマンカ、オウレンセ、マドリード、バリャドリッドとつながる。経済はサービス業(特に観光業)、周辺地域でとれる農産物が基盤となっている。 トルデシリャスには良質なサービスの受けられるパラドールや、ペンションがある。キャンプ場もある。レストランも多い。町の北部には肥沃な谷が広がる。 == 歴史 == シエリャスの丘の上に、ローマ人の居住地トゥリス・シッラエ(Turris Sillae)が建設された。この場所は、レコンキスタの時代にはドゥエロ川流域の防御線上の防御物となった。1262年、アルフォンソ賢王はトルデシリャスにフエロ(特権)を授けた。1325年にアルフォンソ11世が宮殿建設を決めてから、町は王族と貴族がこぞって住む地となった。このために、15世紀の間、数度のコルテスが開催され続ける伝統が生まれた。エンリケ4世と貴族の小競り合いの間、トルデシリャスは王権を支持した。1476年に、カトリック両王とフアナ・ラ・ベルトラネーハの衝突が起きた時も同様であった。 1494年、カトリック両王が唱えたトルデシリャス条約がここで締結された。これは新大陸でのスペイン=ポルトガル間の国境線を確定したものである。王権を支持してきた伝統にもかかわらず、コムネロスの反乱ではコムネロス側についた。指導者たちが、サンタ・クララ修道院に幽閉されているフアナ女王の仲裁を頼みに町を訪れたのである。最終的に、アロ伯率いる王軍がトルデシリャスを攻略した。トルデシリャスは経済発展で決定的な要素とみなされる通商路の交差点にあったが、王軍による攻略が長い衰退の始まりを決定づけた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「トルデシリャス」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Tordesillas 」があります。 スポンサード リンク
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