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トーレ・デル・ビエルソ鉄道事故(トーレ・デル・ビエルソてつどうじこ)は、1944年1月3日にスペイン・レオン県地域のトーレ・デル・ビエルソ付近のトンネル内で3本の列車が衝突した鉄道事故である。公式には死者は78人とされているが当時は死者が200-250人に上ると推定され、より最近の研究では総死者数は500人以上であると推定された。 ==事故の経過== 事故発生前日の夕方の20時30分(現地時間、CET)、ガリシアへ向かう郵便急行列車(の蒸気機関車'マストドン'2両+客車12両)がマドリードを出発しラ・コルーニャへ向かって走行した。この列車がアストルガに到着した時には2時間遅れで走行しており、またブレーキに問題を抱えていた。そのため、アストルガでブレーキの点検に9分を要した。その後、機関車のうち1両が軸焼けのため使用不能となり、運用から外された。その時点で列車の遅れは3時間に達しており、ブラニュエーラス峠(Branuelas)を通る急な下り勾配を走行するには深刻な問題を抱えていたが、走行を続ける決断をした。 この列車はアルバーレス(Albares)に停車する予定だったが、客車に備わっているすべての手ブレーキと砂を使用したにもかかわらず停車できなかった。アルバーレス駅の駅長は即座に、ブレーキが故障した列車が下り勾配を暴走していることをトーレ・デル・ビエルソ駅に電話で伝えた。トーレ・デル・ビエルソでは駅長が駅長室へ走り、暴走列車を減速させるために線路上に枕木を設置したが、効果はなかった。列車は汽笛を絶え間なく鳴らし、ブレーキシューを使用しながら駅を通過し、駅を越えてすぐのところにある20番トンネルに進入した。 同じころ、入換機関車と3両の客車が、20番トンネルのトーレ・デル・ビエルソから離れた位置を走行していた。郵便列車が追突した時、後方の2両の客車はトンネル内を走行中であった。衝突の際、郵便列車の前方の客車6両は木造であったため列車のガス灯の火が引火し燃え始めた。 さらに、27両の貨車を牽引していた石炭列車が、最初の衝突を知らないまま反対方向からトンネルに接近してきた。最初の衝突で信号ケーブルが破損しており、石炭列車が21番トンネルを出た時には進行信号が現示されていた。負傷していなかった入換機関車の運転士は必死で接近してくる石炭列車へ警告しようとした。石炭列車は何とか減速することができたが、入換機関車が牽引する列車に突っ込み、入換機関車の運転士と石炭列車の乗務員4人が死亡した。 火は2日間燃え続け、すべての救助作業を遅らせ、また多くの犠牲者の身元が判別できなくなった。 当時のスペイン内戦に続くフランシスコ・フランコ政権下での厳しい検閲は事故が当時ほとんど公表されず、またRENFEの公式事故報告書も失われたことを意味した。多くの人々が切符を持っていなかったため、実際に乗っていた乗客の人数を推定することは困難を極めたが、生存者たちは、列車は混雑しており多くの乗客がベンビブレのクリスマス市へ向かっていたと述べている。事故の規模が明らかにされたのは事故から随分時間がたってからであった。現在でも実際の事故の重大さについても様々な議論があり、いくつかの出典は総死者数は500人程度である主張している〔。 事故現場の20番トンネルは1985年に地質に問題があるため閉鎖された。 『20番トンネル(原題:)』という表題の事故についての映画は、2002年にゴヤ賞の短編ドキュメンタリー賞部門で受賞した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「トーレ・デル・ビエルソ鉄道事故」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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