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ドッチ : ウィキペディア日本語版
カン・ケク・イウ

カン・ケク・イウ(Kang Kek Iew、1942年11月17日 - )は、民主カンプチアの政治犯収容所S21Aの所長。別名ドッチ(Duch)。なお、名前のアルファベット表記、日本語表記ともに必ずしも統一的に使われていない。クメール語のアルファベット表記に統一した規則があるわけではない
〔P.Short, Pol Pot:Anatomy of a Nightmare, Henry Holt and Company, LLC, New York, 2005, ISBN 978-0-8050-6662-3, xv.〕ので、文献によって表記が異なる。
Kang Keck Ieu〔D.P.Chandler, Voices from S-21:Terror and History in Pol Pot's Secret Prison, University of Calfornia Press, 1999, ISBN 978-0-520-22247-2.〕、
Kaing Khek Iev〔B.Kiernan, How Pol Pot Came to Power(second edition), Yale University Press, 2004, ISBN 978-0-300-10262-8.〕
〔B.Kiernan, The Pol Pot Regime(third edition), Yale University Press, 2008, ISBN 978-0-300-14434-5.〕
〔P.Short, ''Pol Pot'', p.451.〕、
Kaing Guek Eav〔B.Kiernan, ''Regime(third edition)'', xxii.〕
〔Nic Dunlop, The Lost Executioner:A Journey to the Heart of the Killing Fields,
Walker Publishing Company, Inc.,
2005, ISBN 978-0-8027-1472-5, p.29.〕、
Duch〔、
Deuch〔などの表記が知られている。
日本語表記も、カイン・ゲイ・イェウ〔井川一久編著「新版カンボジア黙示録」田畑書店、1987、p.278.〕、
ドゥイ〔、ドゥイチ〔フランソア・ビゾー著中原毅志訳「カンボジア 運命の門―「虐殺と惨劇」からの生還」講談社、2002、ISBN 978-4062113083.〕などが見られる。ドッチという表記は、文献〔山田寛「ポル・ポト<革命>史 虐殺と破壊の4年間」講談社メチエ選書、ISBN 4-06-258305-4.〕で使用されているが、英語文献〔Nic Dunlop, ''The Lost'', p.1.〕によると、は「」と発音するのが正しいという。ドッチは民主カンプチア時代、カンボジア共産党常任委員会のメンバーであったが、
カンボジア共産党内の序列が何位であったのかはわかっていない
〔B.Kiernan, ''Regime(third edition)'', xxii-xxiii.〕。
少なくとも20位以内には入っていない〔B.Kiernan, ''Regime(third edition)'', xxii.〕。
ドッチの妻の名はロム()といいアムレアン()で結婚したことがわかっている
〔D.Chandler, ''Voices'', p.168, note 21.〕。

==幼年期から青年期にかけて==
ドッチの来歴に関しては様々な研究があるが、資料によって異同がある。
例えば、生年月日や生まれた場所は必ずしも一致した情報が与えられているわけではない。
生年月日については、D.チャンドラーの書物〔D.Chandler, ''Voices'', p.20.〕では、1942年頃と書かれているのに対し、B.キアナンの本〔B.Kiernan, ''Regime(third edition)'', xxii.〕では、1942年
と書かれている。ドッチ本人へのインタビューに基づいた記事では、本人が1942年11月17日生まれだと述べている
〔Nic Dunlop and Nate Theyer, 'Chief of the Sinners', Far Eastern Economic Review, May 6, 1999, p.22.〕。カンボジア特別法廷のドッチに対する第1審判決文でも1942年11月17日生まれと書かれている
〔カンボジア特別法廷ドッチ裁判第1審判決文 Case File 001/18-07-2007/ETCC/TC document no.E188, p.42.
〕。
貧しい中国系カンボジア人の一家に〔D.Chandler, ''Voices'', p.20.〕〔〔
チョヤオ(、コンポン・ソム州スタウン()、コンポン・チェン()地区)で生まれた
〔B.Kiernan, ''Regime(third edition)'', p.315, note9.〕。
両親は村から外へ出たことはなかった〔。
一方で、生まれた場所に関しては、カンボジア特別法廷のドッチ裁判第1審判決文では
コンポン・ソム州スタウン()地区ペアム・バン()郡Poev Veuy村
と認定されている〔。
ドッチの父の名はカイン・キ()〔といい中国人〔、母親カイン・シウ()は
中国人との混血である〔。
ドッチは、5人いた子供のうちの最年長で、唯一の男子であった〔〔。ドッチが9歳のとき、土地をめぐる問題に巻き込まれて、一家は祖母が残してくれた別の土地へ移住することになった〔。2002年現在こちらの家は残っている〔。
父親は中国人が経営する地方の魚会社で事務員として働き始めたが季節雇用者として雇われたので、母も市場でオレンジケーキや揚げたバナナを
売って家計の足しにしなければならなかった〔。
子供の頃からドッチは勉強のよくできる子として知られていた〔。
母親へのインタビューによると、子供の頃のドッチは「いつも本のことばかり」考えていたという
〔D.Chandler, ''Voices'', p.20.〕。
ドッチは、家から歩いて10分ほどのところにあった、隣村のポ・アンデット()学校へ通った後、
その隣にあったコンポン・チェン小学校へ入った〔。
ドッチの先生はケ・キム・フオ(、暗号名はソト
〔Case File 001/18-07-2007/ETCC/TC document no.E188, p.87.〕、
後にクメール・ルージュに入り、プルサト地方の一地区の責任者として働いていたが、
S-21へ送られて処刑された〔N.Dunlop, ''The Lost'', p.173.〕。)という名で、
貧しい子供にはお金を与えて勉強を続けられるように援助するなど熱心な先生で人気もあった〔N.Dunlop,''The Lost'', pp.29-30.〕。(文献によっては、ドッチの初期の教育は、アメリカ政府がドッチの住む村に
送った教師達によるものだった〔とも書かれている。)
1961年、ドッチは試験に合格し、前期中等教育修了証書()
を手にした〔N.Dunlop, ''The Lost'', p.54.〕。
その後、シエムリアップにあるLycée Suryavarman IIへ入り、ここで最初のバカロレアに合格した
〔。普通の生徒が2年かかる所を1度の試験で合格したことは非常にまれなケースであるという
〔。同年、プノンペンのエリート校リセ・シソワットへの入学許可が与えられ、
そこで数学を専攻することになった〔。
1962年にリセ・シソワットへ入学し、ここで2回目のバカロレアに全国第2位の成績で合格した〔。
(一方で、D.チャンドラーの著書〔ではバカロレアに全国2位で合格したのは1959年となっていて、
文献〔とは矛盾した記述が見られる。)
リセ・シソワットへ通うために必要だった資金は、文献〔には、ドッチの地元の篤志家の援助によるものと
書かれているが、これは、ドッチの小学校時代の恩師ケ・キム・フオと同一人物だと思われる
〔N.Dunlop, ''The Lost'', p.55.〕。フオはこの頃には、プノンペン南にあったリセの教師を
していた〔。
リセ・シソワット在学中に友人ホー・ギー()の妹キム()と恋愛関係になり
婚約したが、何らかの理由で婚約は破棄された〔。
1964年、数学教師になるためリセ・シソワットのすぐ近くにある教育研究所で学び始めた〔。
この研究所の前所長が、数学を教えていたソン・センで、当時ここは、共産主義者を生み出すセンターの1つになっていた
〔N.Dunlop, ''The Lost'', pp.55-56.〕。
(一方で、D.チャンドラーの著書〔
では1964年にプノンペン大学に付属する教育研究所〔D.Chandler, ''Voices'', p.19.〕の数学教授になったと書かれている。
ソン・センは、反政府的であったため1962年に所長の座を追われたが、研究所で教えることは許されていた〔D.Chandler, ''Voices'', p.19.〕。
なお、ソン・センは1964年、政府の弾圧から逃れるために前年の1963年にプノンペンから姿を消した
ポル・ポト、イエン・サリに続き〔、
ベトナム国境近くの秘密基地第100局()へ移動し地下活動に入った
〔P.Short, ''Pol Pot'', p.145.〕。
ソン・センがプノンペンから姿を消したのは、ポル・ポトがプノンペンを去った1日後であると書く書物もある
〔P.Short, ''Pol pot'', p.144.〕。)
ここでドッチは、この研究所の教授でプノンペンの共産主義細胞のトップだった
チャイ・キム・フオ(。後にドッチが、
S-21の所長に推薦することになる人物。1978年にS-21で処刑された〔N.Dunlop, ''The Lost'', p.56.〕。)
の紹介でカンボジア共産党員になった〔N.Dunlop, ''The Lost'', p.56.〕。
(文献によれば〔、1964年10月のことである。)
同級生の証言によると、学生時代のドッチは無趣味で政治にも関心を抱いていなかったが〔、
研究所に入ってから共産主義に引きつけられていった〔D.Chandler, ''Voices'', pp.20-21.〕。
これは、クメール語を学ぶためプノンペン大学に交換留学生として送られていた中国人の学生グループから影響を受けたためであるという
〔。
ドッチは、1965年8月28日に教員免許を取得〔N.Dunlop ''The Lost'', p.59.〕。
その後、スコウンのリセに赴任した〔。
当時の生徒の1人によれば、ドッチの授業はとても正確なものだったという
〔〔。この時の同僚の1人が、
生物学を教えていたマム・ネイ(、あるいは)
である〔。
両者は後にカンボジア共産党員になり、さらにS-21で要職につくことになる。
なお、小学校の数学教師になったとは書かず、
バライン大学()の副学長になったと書く文献もある
〔B.Kiernan, ''How Pol Pot(second edition)'', p.261.〕〔B.Kiernan, ''Regime(third edition)'', pp.314-315.〕
。当時の学長は、後にS-21の尋問部長になるマム・ネイである〔。
(マム・ネイは暗号名をチャンといい、S-21ではドッチの部下として尋問部長を務めた
〔D.Chandler, ''Voices'', p.24.〕。
とても背が高く、やせており、肌の色が白いことが見た目の特徴である〔。
1950年代に生物学を教えていたことを除くと、マム・ネイの青年時代についてはほとんどわかっていない〔。ベトナム語が流暢だったことから、おそらく、ベトナムで生まれ、そこで育ったのだろうと考えられている〔。
1990年にもクメール・ルージュの尋問官であったことがわかっている〔。
1994年の時点ではソン・センの部下であり、その命令で、反抗的な農民の「再教育」用の監獄を作っている〔P.Short, ''Pol Pot'', p.436.〕。1996年に国連職員がチャンを見かけたときには半分リタイアした状態で、市場で売るための野菜を栽培していたという〔。)。
カンボジア特別法廷1審での判決文では、1965年コンポン・チャムのスコウン()にある小学校の数学教師になった〔、と認定されている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「カン・ケク・イウ」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Kang Kek Iew 」があります。



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