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ドッツ・ミラー : ウィキペディア日本語版
ドッツ・ミラー

ドッツ・ミラーJohn Barney "Dots" Miller, 1886年9月9日 -
1923年9月5日)は、メジャーリーグベースボールの右投右打の内野手
アメリカ合衆国ニュージャージー州カーニー(Kearny)出身。
== 来歴・人物 ==
1908年6月にピッツバーグ・パイレーツに入団。その年は傘下のマイナーリーグで43試合に出場し、打率.306を記録した。
1909年には早くもメジャーリーグに昇格を果たし、前年までレギュラーを務めていたエド・アッバティッチオが不振に陥ったこともあり、セカンドのレギュラーを奪取。元は遊撃手だったが、当時パイレーツには後に殿堂入りを果たすホーナス・ワグナーが在籍していたため、二塁手を務めることになった。シーズンでは150試合に出場し、ともにリーグ3位となる47本の長打、87打点を記録するなど、この年のチームのワールドシリーズ
制覇に大きく貢献した。また、二塁手としてリーグ最多の426補殺を記録し、当時のニューヨーク・ジャイアンツジョン・マグロー監督にもダブルプレーの際のワグナーとのコンビネーションはリーグで最高だと言わしめるなど、守備でも大きな役割を果たした。
華々しいデビューを飾った1909年とは対照的に、1910年、ミラーは「2年目のジンクス」に苦しめられた。当時パイレーツに所属していたビル・マケシュニーや前任者のアッバティッチオも振るわなかったため、レギュラーの座は死守したものの、チームのレギュラーでは最低の打率.227に終わった。
1911年は持ち直し、137試合に出場して打率.268を残した。また守備でも、二塁手としてリーグ5位となる357補殺を記録した。
続く1912年、ミラーは一塁手としてプレイすることになる。その理由は、1910年、1911年とパイレーツが優勝出来なかった(ともにリーグ3位)のは、貧打に原因があり、特に一塁手が問題だということで、ミラーを一塁手に転向させようというものだった。また、長身であるということも転向の理由の一つになった。この年は一塁手としてリーグワースト2位の23失策を犯してしまうものの、打率.275、87打点に加え、自己最高の18盗塁を記録するなど、バットでは貧打解消に貢献した。チームも優勝はならなかったものの、2位に浮上した。
1913年もファーストのレギュラーとしてプレイし、150試合に出場。自己最多の20三塁打、7本塁打を記録するなど長打を量産し、こちらも自己最多の90打点(リーグ4位)を叩き出した。また盗塁数でも、前年の自己記録を上回る20個を残した。しかしパイレーツは低迷し、1900年以降では最低となる78勝に終わってしまった。これを受けてチームにテコ入れが行われることになり、12月12日、ミラーは5対3という大型トレードでセントルイス・カーディナルスへと移籍した。
新天地で迎えた1914年のシーズンは前年以上に打撃が好調で、チーム最多の155試合に出場し、打率.290、88打点、166安打、OPS0.732を記録するなど、チームを引っ張った。また元々の本職であったとはいえ、従来のセカンド、ファーストだけでなく、60試合でショートを務めるなど、守備面での器用さを改めて印象付けた。しかしチームは9つの負け越しを記録。この年がミラーにとって初めて負け越しを経験するシーズンとなった。
1916年も引き続き内野の全ポジションを務めたが、打率.238と、1910年以来となる不振に苦しんだ。
1917年は、はじめは主にファーストを守っていたが、一塁手のジーン・ポーレットが6月に加入したため、それ以降は主にセカンドを務めた。シーズンでは148試合に出場するも打率は.248に留まり、打点も2年連続で40点台に終わるなど、完全復調とはならなかった。
1917年のシーズン終了後、当時のカーディナルスのミラー・ハギンス監督がニューヨーク・ヤンキースへと移籍することになった。ミラーはこの頃、数多くのポジションをこなすことなどから、「カーディナルスのキャプテン」("Captain of the Cardinals")と称されており、一時はミラーが後任の監督となるのでは、とも噂された。しかし実際には、ジャック・ヘンドリクスが監督に就任。ミラーは海軍に志願し、第一次世界大戦を戦うこととなった。そのため、1918年はプレイしていない。
終戦後の1919年、カーディナルスに復帰。しかしこの年は打率.231に終わるなど低調で、翌1920年1月にフィラデルフィア・フィリーズへと移籍する。フィリーズ移籍後は年齢の問題もあり、レギュラー獲得とはならなかったが、貴重な内野のユーティリティプレイヤーとして2年間プレイした。
1921年のシーズン終了後、ミラーはパシフィック・コーストリーグサンフランシスコ・シールズ(San Francisco Seals)の監督に就任する。1年目の1922年にシールズをリーグ優勝へ導くなど、監督としても幸先の良いスタートを切った。
ところが1923年のシーズン中、肺結核と診断され、ミラーは直ちにカーニーへと帰郷する。その後ニューヨーク州のサラナック・レイク(Saranac Lake)へと療養に赴くが、9月6日、家族に看取られて36歳の若さで息を引き取った。
ミラーの遺体はカーニーへと帰り、ノース・アーリントン・セメタリー(North Arlington Cemetery)に埋葬された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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