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ドナルド・フランチシェク・トゥスク(, 1957年4月22日 - )は、ポーランド・グダニスク出身の政治家。元首相(第三共和政第14代)。所属する政党は市民プラットフォーム(PO)。現在、欧州連合の元首に相当する欧州理事会議長を務めている。 == 人物 == ポーランド人に近いスラヴ系少数民族カシューブ人(言語がポーランド語に非常に近いためポーランド人の一部族ともみなされる)の血筋を引く。両親は既に他界しており、息子と同名の父ドナルドは大工、母エヴァは看護士であった。父母はもとポーランド系住民としてダンツィヒ自由市の市民権を持ち、第二次世界大戦中にはナチス・ドイツによりドイツ国籍を与えられていたが、戦後はポーランド国籍を取得した。 祖父は戦中にドイツ国防軍に所属していたためドナルドがポーランド政界で頭角を現すにつれて政敵にそれを問題視される事もあったが、鉄道線路の工事士だった祖父が戦争勃発の1939年に「ポーランド系」だったためナチス・ドイツによって逮捕されナチス強制収容所に入れられ、ドイツの敗色濃厚な1944年8月に補充戦力として収容所内から徴兵されたものの西部戦線に投入されポーランド人とはまったく戦っておらず、同年11月にはドイツ国防軍を脱走して西側連合国軍のポーランド亡命政府軍「自由ポーランド軍」に合流したため、国民の間でこの家族の話は特にスキャンダルとはならず、むしろこういう事実が明るみに出るにつれて祖父の受けた苦難は国民の同情と共感を得るほどであった。 トゥスクは出生時よりポーランド国籍であり、母語もポーランド語であるが、カシューブ語も多少は話せるといわれる。また、ドイツ語が堪能であり、英語もかなり話せる。 1980年グダニスク大学卒の文学修士。専攻は歴史学。20世紀初頭におけるポーランド最大の指導者ユゼフ・ピウスツキの研究で修士号を取得。妻マウゴジャタとの間に2人の子供がおり長男ミハウは1982年生、長女カタジナは1987年生。 学生時代からポーランド民主化運動の母体である独立自主管理労働組合「連帯」運動に参加、若手のホープとして頭角をあらわし、1981年にはフリードリッヒ・ハイエクの経済政策を紹介するパンフレットを製作して全国に配布した。 1989年の民主化後に本格的に政界入りした。それ以前は民主化運動のみに明け暮れたのではなく、大学を出た後は発電所や造船所などで産業用のペンキ職人として働き、のちにペンキ屋の親方として当時許可されていた程度の小規模の企業を自ら開業している。そこでは親方社長として真夏の炎天が続くなか、納期に間に合わせようと現場で毎日16時間も働くような猛烈な経験を通じてビジネスの極意と自ら汗を流して働くことの大切さを学んだという。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ドナルド・トゥスク」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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