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ドミンゴ・グスマン : ウィキペディア日本語版
ドミンゴ・グスマン

ドミンゴ・セラーノ・グスマンDomingo Serrano Guzmán , 1975年4月5日 - )は、ドミニカ共和国出身の元プロ野球選手投手)。
== 来歴 ==
1993年サンディエゴ・パドレスと契約し、1999年にメジャーデビューを果たしたが定着には至らず、その後台湾に渡り、中信ホエールズで「多明哥」の登録名でプレーする。
2002年横浜ベイスターズに登録名「グスマン」でテスト入団。中継ぎではなかなか結果を残せなかったが、先発転向後は安定するようになり5勝を挙げた。2003年は登録名を「ドミンゴ」に変えて、1年間先発ローテーションを守ったが、チームが勝率3割台で最下位に沈んだことやムラッ気の多い性格が災いし、8勝12敗と負け越したことを理由に解雇される。まもなく中日ドラゴンズが興味を示し入団する。
2004年は自身初の2桁勝利(10勝5敗)を果たし優勝に貢献したが、翌2005年の故障でほとんど投げられなかった。2006年シーズンも2勝2敗と振るわず5月に二軍落ち、8月にウエーバー公示され、8月21日に自由契約選手になった。
2007年6月、東北楽天ゴールデンイーグルスが獲得を発表。シーズン開始当初はリハビリに専念していたため何処の球団にも属していなかった。その故障の影響が懸念されたため、2度の投球テストとメディカルチェックを経て、6月22日に契約の締結が発表された。登録名は引き続き「ドミンゴ」。背番号は空いていた背番号が皆無だったことと、「99マイルの速球を投げてほしい」という意味を込め、99が与えられた。7月17日、復帰後初登板で先発し、初勝利を挙げた。外国人投手の3球団での勝利としては西田亨ジェレミー・パウエルケビン・バーンに次ぐ史上4人目。
9月1日西武ライオンズ戦では4度のボークを記録(プロ野球初)。このうち3度は同一イニングでの記録(プロ野球タイ記録)。さらに、降板時に3塁塁審の秋村謙宏に駆け寄り、中指を突き立てるという侮辱行為を働き、退場処分を受けた。
2008年に背番号を50に変更。福盛和男の移籍や小山伸一郎の出遅れなどから抑えに転向。オープン戦ではまずまずの成績を残すが、3月20日の開幕戦(対ソフトバンク戦)にて、楽天リード(3-1)で迎えた9回裏に、柴原洋にパ・リーグでは14年ぶりとなる開幕戦でのサヨナラ本塁打を打たれる。1日置いた22日の第2戦でも、楽天リード(4-3)で迎えた9回2死で登板したが同点打を打たれる。
立て続けに救援失敗が続いたことから先発に回り、4月11日の対オリックス戦で好投を見せ(登板後に本人も救援より先発の方がしっくりくると発言している)、4月26日の対日本ハム戦は2安打完封を記録。ところが、今度は抑えのときとは逆に抑えても打線の援護がない状態に陥り、僅差での敗戦を繰り返してしまう。結局、先発では終始安定した投球を見せて100イニング以上を投げ、防御率も3点台にまとめながら、わずか2勝(7敗)というやや不運な成績に終わった。シーズン終了後、12月1日に同年限りでの退団が発表された。
2009年4月6日四国・九州アイランドリーグ所属の高知ファイティングドッグスに入団することが発表された。4月8日よりチームに合流した。前期は4試合に登板し、1勝1敗の成績であったが、故障のため一時帰国したことが7月10日に明らかにされた。シーズン終了後の11月30日に球団は来シーズンの契約を結ばないことを発表し、退団が決まった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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