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ドライエ(''Société des Automobiles Delahaye'' )は、1894年創業のフランス自動車メーカーである。 トラック主力メーカーだったがのち1930年代に高級車分野に本格進出、豪奢な高性能車を製造し、レースでの成功等で広く注目された。第二次世界大戦後の高級車需要の衰退に伴って消滅した。 == 沿革 == === 創業期~発展期 === エミール・ドライエ (1843-1905)はフランスのトゥールで生まれた。ブリュッセル等において技術者としての経験を積んだ後、1873年にトゥールに戻り、1879年にはジュリアン・ブレトン から 煉瓦工場の経営を引き継いだ。 ドライエは窯業に代わって蒸気機関やポンプなどの機械製作に進出し、続いて新しい動力であるガスエンジンおよびガソリンエンジンの改良にも取り組んだ。 当時、ドイツでガソリン自動車が発明され(1886年、ゴットリープ・ダイムラーとカール・ベンツがそれぞれ開発)、1890年にはフランスにおけるダイムラーエンジンの製造権を得ていたパナール・ルヴァッソールがガソリン自動車を開発、続いてプジョーもガソリン車を製作していた。ドライエはこのような情勢に影響を受け、1890年頃から自動車の開発を考えるようになる。 こうして1894年、ドライエは独自のガソリン自動車を完成させ、パリで発表した。この時代における多くの自動車の例に漏れず、単気筒・ベルトドライブのリアエンジン車である。1896年には黎明期の自動車レースであるパリ-マルセイユ・レースに参戦するなどして知名度を高めた。 エミール・ドライエと親しい人物の一人に、初期のドライエ車の(富裕な)顧客でレーシングドライバーでもあったジョルジュ・モラン がいた。モランの義兄レオン・デマレ はパリでの工場経営を義父ポール・モランから引き継いだところで、新分野への進出を思案していた。そこでドライエの自動車に将来性を見出したモランとデマレは、ドライエにパリ進出を持ちかけた。ドライエもこれに同意、1898年にドライエ社はパリに移り、ここで自動車生産を行うようになる。 しかしそれからほどなく1901年にエミール・ドライエは経営から退き、1905年にリヴィエラで死去した。以後はモラン一族が1954年のオチキス社との合併まで、ドライエ社の経営に当たることになる。 初期にはモータースポーツにも参戦していたドライエだったが、その活動も1902年を最後に中断した。以後は第一次世界大戦後までトラック生産を主力とする地味なメーカーとして推移した。特徴的な取り組みとして、早くから消防自動車や大型農業機械の製作を行っていたことが挙げられよう。1927年からは中級乗用車の生産を行ったが、さほどの成功を収めなかった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ドライエ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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