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ドリュー・P・ストーレン(Drew P. Storen, 1987年8月11日 - )は、アメリカ合衆国・インディアナ州ブラウンズバーグ出身の野球選手。投手、右投両打。MLB・トロント・ブルージェイズに所属している。 == 経歴 == 父マーク・パトリックはインディアナ州インディアナポリスのAMラジオ局・WNDEなどでスポーツ番組のパーソナリティとして活動している。ストーレンは子供のころはシアトル・マリナーズのファンで、好きな選手はケン・グリフィー・ジュニアだった〔Drew Storen, "Prospect Chat: Drew Storen / The Nationals righthanders answered readers' questions ," ''BaseballAmerica.com'', February 24, 2010. 2011年1月16日閲覧。〕。9月、父がモントリオール・エクスポズのトレーナーと知り合いだったことから、エクスポズがオハイオ州シンシナティに遠征してきたときに、ストーレンは球場でエクスポズの試合前練習を見学させてもらう。このときエクスポズに昇格したばかりだったチャド・コルデロと話をし、大学野球の全米選手権 "カレッジ・ワールドシリーズ" に出場したときのことなどを聞かせてもらったストーレンは、自分もその大会に出たいと思うようになった〔Adam Kilgore, "For Drew Storen, the Washington Nationals' future closer, the future can't get here quick enough ," ''washingtonpost.com'', March 5, 2010. 2011年1月16日閲覧。〕。地元のブラウンズバーグ高校では最終学年時に、投げては55イニングで8勝1敗・防御率0.89・86奪三振、打っては打率.400・8本塁打・33打点を記録する活躍を見せる〔"Player Bio: Drew Storen ," ''Stanford University's Official Athletic Site''. 2011年1月16日閲覧。〕。高校卒業時の6月に、MLBドラフトでニューヨーク・ヤンキースから34巡目(全体1050位)指名を受けたが〔"34th Round of the 2007 MLB June Amateur Draft ," ''Baseball-Reference.com''. 2011年1月16日閲覧。〕、プロ入りはせず。当時カレッジ・ワールドシリーズ出場15回のスタンフォード大学へ進学する。 元々は三塁手兼先発投手として野球部に入ったストーレンだが、コーチからリリーフ転向を打診され承諾〔、1年目のからチームの抑え投手となった。この年、チームはレギュラーシーズンとその後のトーナメントを勝ち上がり、2003年以来5年ぶり16回目のカレッジ・ワールドシリーズ進出を決める。ストーレンはこの間8セーブを挙げ、目標としていた大会への出場を果たした。8大学によるダブルイリミネーション方式のトーナメントで行われる同大会では、ストーレンはフロリダ州立大学との初戦に登板。3点リードの8回裏に同点本塁打を喫したが、その直後に味方が一挙11得点で勝ち越し、結果的に勝利投手になっている〔Eric Olson, AP Sports Writer, "Stanford's 11-run inning pushes Cardinal past Seminoles ," ''USATODAY.com'', June 14, 2008. 2011年1月16日閲覧。〕。チームは準決勝でジョージア大学に敗れ、全米王座獲得はならず。ストーレンの大学1年目は、31試合56.1イニングで5勝3敗8セーブ・防御率3.51・50奪三振という成績だった。続くは、チームはカレッジ・ワールドシリーズ出場を逃す。ストーレンは引き続き抑え投手を務め、28試合42.2イニングで7勝1敗7セーブ・防御率3.80・66奪三振を記録した。 同年6月9日のMLBドラフトでは、1巡目(全体10位)でワシントン・ナショナルズがストーレンを指名。この順位での指名は、実力よりも契約可能性を優先してのものという評価が専らであった〔Thomas Boswell, "Ask Boswell: Stephen Strasburg, GM Mike Rizzo, Nats, Redskins and More ," ''washingtonpost.com'', August 20, 2009. 2011年1月16日閲覧。〕。その見立て通り、指名翌日の10日には入団契約を結びプロ入りする。せっかちを自認するストーレンは、同日に球団幹部から「プロデビューはいつがいいか」と聞かれ「金曜日(12日)はどうですか」と答えたという〔。結局、12日ではなく18日に、マイナーリーグのA級ヘイガーズタウン・サンズでプロ初登板〔Lisa Winston / MLB.com, "Storen first of 2009 class to taste pros / Nats' second pick of Draft debuts with Hagerstown Suns ," ''MLB.com'', June 19, 2009. 2011年1月16日閲覧。〕。これ以降、大学時代と同様に救援投手として登板を重ねたストーレンは、A+級ポトマック・ナショナルズを経てAA級ハリスバーグ・セネターズまで昇格してプロ1年目を終える。3クラス合計での成績は、28試合37イニングで2勝1敗11セーブ・防御率1.95・49奪三振・WHIP 0.78だった。 は、シーズン開幕をAA級ハリスバーグで迎えたストーレンだったが、4月末にはAAA級シラキュース・チーフスへ昇格。そこで6試合に投げたところで、5月中旬にメジャーへ昇格することになった。不振のブライアン・ブルーニーと入れ替わる形でナショナルズに合流し〔Adam Kilgore, "Nationals promote Drew Storen ," ''washingtonpost.com'', May 16, 2010. 2011年1月16日閲覧。〕、同月17日のセントルイス・カージナルス戦でメジャーデビュー。2点ビハインドの7回裏一死一塁の場面で登場し、マット・ホリデイから空振り三振を奪うなど、この回を無失点に抑えた〔"May 17, 2010, Nationals at Cardinals Box Score and Play by Play ," ''Baseball-Reference.com''. 2011年1月16日閲覧。〕。そのままメジャーに定着したストーレンは、前半戦終了時点で24試合に登板、中継ぎとして8ホールドを挙げる。後半戦になると、抑え投手だったマット・キャップスが途中でミネソタ・ツインズへトレード移籍したこともあって、試合を締める役割を担うことが増えるように。8月6日のロサンゼルス・ドジャース戦で9回裏の1イニングを無失点に抑えメジャー初セーブを記録すると〔"Aug 6, 2010, Nationals at Dodgers Box Score and Play by Play ," ''Baseball-Reference.com''. 2011年1月16日閲覧。〕、シーズン終了までに計5つのセーブを稼いだ。この年にデビューした選手の中では54登板は5位、5セーブは高橋尚成に次いで2位の多さだった。 は43セーブを記録。 は故障で出遅れ、クローザーの座に復帰したのはシーズン終盤になってからだった。10月12日のリーグ優勝決定シリーズ進出が懸かったカージナルスとの地区シリーズ第5戦では、2点リードの9回表に登板し、二死2ストライクまで追い込んでからまさかの4失点で逆転を許し、ナショナルズは敗退した。 は、開幕前にチームがラファエル・ソリアーノを獲得したため、リリーフに配置転換された。これが、影響したのか成績不振に陥り、マイナー降格となった。一連の出来事に、チームメイトのタイラー・クリッパードもチームの編成部に対して不満を言っている。 1月17日にナショナルズと345万ドル+出来高(出場試合数によって変動)の1年契約に合意した。この年は、4月から6月にかけて、毎月1失点ずつに抑えるロケットスタートを決めた。7月には一時、不安定になったが、シーズン終盤にクローザーのラファエル・ソリアーノが調子を落とした為、ストーレンが代役を務めた〔。クローザー定着後も役割を全うし、最終的には65試合に登板して防御率1.12・2勝1敗11セーブ・WHIP0.98という素晴らしい成績を収めた。だが、サンフランシスコ・ジャイアンツとのポストシーズンでは初戦でセーブを失敗〔し、チーム敗退の一因となってしまった。 はジョナサン・パペルボンの加入もあったが、全体としてはクローザーの務めを果たし、58試合に登板して29セーブを挙げた。しかし防御率は、数字的に見ると前年比で3倍以上となる3.44まで上昇した。別の面では、三振奪取能力が飛躍的に向上し、奪三振率11.0をマークした。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ドリュー・ストーレン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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