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ドリームガールズ : ウィキペディア日本語版
ドリームガールズ

ドリームガールズ(Dreamgirls)は、ヘンリー・クリーガー作曲、トム・アイン脚本および作詞によるブロードウェイミュージカルスプリームス、シュレルズ、ジェームス・ブラウンジャッキー・ウィルソンなどのR&Bアーティストのショー・ビジネスへの憧れから成功を基にし〔Tom Eyen denied that he had the Supremes in mind when he wrote the book. "I didn’t grow up with the Supremes, I grew up with the Shirelles. ''Dreamgirls'' isn’t about any one group. It’s a cavalcade of black Motown singers, ...all larger than life." retrieved February 27, 2007 〕、イリノイ州シカゴの若い女性たちによる「ザ・ドリームス」がスーパースターとなっていく過程を描いている。大半はアフリカ系アメリカ人によるパフォーマンスで、ソウル/R&Bレーベルとして知られるモータウンダイアナ・ロススプリームスをモデルに描かれている。
1981年12月20日、インペリアル・シアターで開幕し、1982年のトニー賞においてミュージカル作品賞を含む13部門にノミネートされ、6部門で受賞した。4年間かけて1,522回公演し、1985年8月11日に閉幕した。2006年、ドリームワークスパラマウント映画により映画化され『ドリームガールズ』が公開された。この映画はジェニファー・ハドソンビヨンセアニカ・ノニ・ローズジェイミー・フォックスエディ・マーフィダニー・グローヴァー、キース・ロビンソンが出演した。
== あらすじ ==

=== 第1幕: 1960年代 ===
1962年、シカゴの将来有望なガール・グループであるザ・ドリーメッツはニューヨーク州ハーレムにあるアポロ・シアターの有名な「アマチュア・ナイト」に出演しようとする("I'm Lookin' for Something", "Goin' Downtown", "Takin' the Long Way Home")。このグループはふくよかなリード・シンガーのエフィ・ホワイトと親友ディーナ・ジョーンズおよびロレル・ロビンソンで構成されている。このコンテストでザ・ドリーメッツはエフィの兄弟C.C.が作曲した『''Move (You're Steppin' on My Heart)'' 』を歌うことになっており、C.C.も同行する。残念ながらコンテストでは落選したが、舞台裏でザ・ドリーメッツとC.C.は中古車販売員のカーティス・テイラー・ジュニアと出会い、カーティスはザ・ドリーメッツのマネージャーとなる。
カーティスは人気R&Bスターのジェイムズ・アーリー(愛称サンダー)と彼のマネージャーのマーティを説得してザ・ドリーメッツをバックアップ・シンガーとして雇わせる。ジェイムズとザ・ドリーメッツの初めての演奏は成功したが("Fake Your Way to the Top")、ジェイムズは新曲のことで頭がいっぱいである。カーティスはジェイムズとマーティに、伝統的なR&Bとソウルの枠を越えてポップ市場を狙うべきだと説得する。C.C.はジェイムズとザ・ドリーメッツのために『''Cadillac Car'' 』を作曲し、彼らはツアー公演を行ない("Cadillac Car (On the Road)")、戻るとシングルをレコーディングする("Cadillac Car (In the Recording Studio)")。『''Cadillac Car'' 』はポップ・チャートでヒットし始めるが、白人のポップ・シンガーのデイヴ・アンド・ザ・スウィートハーツがこれをカバーして("Cadillac Car" (リプライズ))ヒットを奪う。これに怒ったカーティス、C.C.、ジェイムズのプロデューサーのウェインは、全米のDJに次のシングル『''Steppin' to the Bad Side'' 』をかけるよう賄賂を贈る。この結果、この曲はポップ・チャートで大ヒットする。カーティスがマーティの領域であるジェイムズの活動に干渉し、カーティスとマーティは対立するようになる。エフィとカーティスが交際を始め、既婚者のジェイムズがロレルと不倫し始めたことから事態はさらに複雑なものになっていく("Party, Party")。
カーティスはジェイムズをペリー・コモのようなポップ歌手にしようと企て("I Want You Baby")、ザ・ドリーメッツを独自にヒットさせようと、「ザ・ドリームズ」に改名してより洗練させて見た目も音楽もポップに近付ける。最大の変化はリード・シンガーがエフィからディーナに代わったことである。エフィはこれに憤慨する。C.C.はエフィにカーティスのプランに従うよう説得する("Family")。カーティスとマーティは喧嘩となり、マーティはジェイムズのマネージャーを辞めたためカーティスが後任となる。新生ザ・ドリームズはオハイオ州クリーブランドのクラブであるクリスタル・ルームでデビューし、ファースト・シングルを歌う("Dreamgirls")。ショーは成功し、マスコミが押し寄せる("Press Conference")。カーティスはディーナに「史上最も有名な女性にしてみせる」と宣言し、ないがしろにされたエフィは「私は?」と尋ねる("Only the Beginning")。数年でザ・ドリームズはシングルがヒットし続けて主流に乗る("Heavy")。ディーナがスターとしての名声が向上する一方、エフィは神経質で我儘になっていく。エフィはカーティスがディーナと浮気をしているのではないかと疑う。ロレルは彼らと穏便に過ごそうとするが、事態は修復不可能なことを痛感する。
1967年、グループは「ディーナ・ジョーンズ・アンド・ザ・ドリームズ」となり、ラスベガスに初登場する。ジェイムズが立ち寄ると("Drivin' Down the Strip")、エフィが病気で休演中であると知る(のちにカーティスの子を妊娠していることが明かされる)。カーティスとディーナはエフィが公演を妨害するために休んでいるのだと考える。カーティスはエフィの代わりに新人歌手ミシェル・モリスを出演させ、エフィはこのことを誰かから聞く前に知ってしまう。エフィはカーティス、C.C.、メンバーたちと向き合い("It's All Over")、カーティスに個人的に話し合おうとするが("And I Am Telling You I'm Not Going")、傷心のエフィはディーナ・ジョーンズ・アンド・ザ・ドリームズが自分なしでどんどんヒットするのを横目に去っていく("Love Love Me Baby")。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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