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ドリー・ファンク・ジュニア(Dory Funk Jr.、本名:Dory Earnest Funk Jr.、1941年2月3日 - )は、アメリカ合衆国出身の元プロレスラー。インディアナ州インディアナポリス出身で、後テキサス州アマリロに転じた。第4代PWF会長。 日本でのニックネームは「グレート・テキサン」。父親のドリー・ファンク・シニア、弟のテリー・ファンクも著名なプロレスラーである。テリー・ファンクとタッグチーム「ザ・ファンクス」を組み、日本でも活躍した。 == 来歴 == ウエスト・テキサス州立大学でフットボール選手として活躍後、1963年7月にアマリロで初マットを踏む。同年11月にはデビュー4か月にして時のNWA世界ヘビー級王者ルー・テーズと対戦した。 1969年2月11日、フロリダ州タンパにおいてジン・キニスキーを破りNWA世界ヘビー級王座を獲得。以降、1973年5月24日にミズーリ州カンザスシティで「弟分」ハーリー・レイスに敗れるまで、4年3か月間にわたる長期政権を築いた。その間、日本でもジャイアント馬場、アントニオ猪木、坂口征二と防衛戦を行っている。米国ではラッシャー木村や鶴田友美からの挑戦を受けもした。 以来、米国を代表するレスラーとなり、実力世界一と謳われた時期もあった。後に全日本プロレスの常連になると、準日本側のような扱いになり、アブドーラ・ザ・ブッチャー、ホースト・ホフマン、ビル・ロビンソン、ブルーザー・ブロディらと好勝負を残している。1977年には世界オープンタッグ選手権に弟テリーと組んで優勝。1979年・1982年の世界最強タッグ決定リーグ戦でも優勝し、1981年にはインターナショナル・ヘビー級王者にも輝いている。全日本への参戦は1990年代半ばまで続き、その間1983年と1985年の最強タッグには馬場とコンビを組んで出場した。1984年にも馬場とのコンビでPWF世界タッグ王座決定リーグ戦に出場している。外国人レスラーで馬場と一定期間コンビを組んで日本で活動したのはドリー、スタン・ハンセン、アンドレ・ザ・ジャイアントだけである。 米国では地元アマリロでプロモーター兼エースとなって活躍する一方、フロリダ(CWF)、ジョージア(GCW)、プエルトリコ(WWC)などにも参戦。1980年代後半にはホス・ファンク(Hoss Funk)を名乗り、カウボーイ・ギミックのヒールとしてニューヨークのWWFにも登場した。 全日本プロレスへの外国人レスラーのブッキングを行ったり、指導者として多くの後進を育成してきてもいる。門下にはジャンボ鶴田、天龍源一郎、ボブ・バックランド、スタン・ハンセン、テッド・デビアス、ディック・スレーター、レイ・キャンディ、ティト・サンタナ、ジェイ・ヤングブラッド、石川敬士、キング・ハク、ジョニー・エース、ジェフ・ハーディー、マット・ハーディー、テスト、ジャイアント・シルバ、クリスチャン・ケイジらがいる。全日本に継続参戦している頃はコーチ役も受け持っており、三沢光晴らの成長に一役買った。その他、門下ではないものの、カート・アングル、西村修も彼の指導を受けている。 2001年10月には新日本プロレスに初参戦。7日の「無我」後楽園ホール大会では弟子の西村とシングルマッチを行い、8日の東京ドーム大会にはテリーとのザ・ファンクスで出場、藤波辰爾&ボブ・バックランドのチームと対戦した。 第一線を退いてからは不動産事業を手掛ける傍ら、ファンキン・コンサーヴァトリー(Funkin' Conservatory)というプロレスリング・スクールにて後進の指導に当たり、自身も時折インディー団体のリングに上がっていた。 2008年3月1日、全日本プロレス両国国技館大会にて引退試合を行った。同時期にIGFにウィットネスとしてスタン・ハンセンと共に来日。 2009年4月には弟テリーと共にWWE殿堂入りを果たした。プレゼンターはダスティ・ローデスであった。全日本プロレスUSA道場を設営するなど、全日本社長の武藤敬司とも良好な関係を築いている。 2013年10月、全日本プロレスに22年ぶりにファンクスとして来日。両国国技館第二試合に出場。渕正信、西村修組と20分1本勝負で時間切れ引き分けに終わる。この試合で、ドリーは唇から流血をした〔日刊スポーツ、2013.10.28〕。先代の馳浩退任後空席が続いていたPWF新会長に就任。 2014年07月、全日本プロレス後楽園大会に出場。西村修、吉江豊とトリオを結成し、大森隆男、渕正信、ウルティモ・ドラゴン組と対戦。新体制となった全日本プロレスへの全面支援をアピールした。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ドリー・ファンク・ジュニア」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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