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ドルゴン
ドルゴン(満洲語: 20px, ラテン文字転写: 〔満洲語でアナグマを意味する。〕、多爾袞、万暦40年10月25日(1612年11月17日) - 順治7年12月9日(1650年12月31日))は、後金から清初の皇族。。甥にあたる順治帝の摂政となり、清が中華王朝となるにあたって指導力を発揮し、大きな役割を果たした。養子に〔ドルゴンの同母弟ドドの五男。〕がいる。 == 生涯 == 太祖ヌルハチの第14子として生まれる。母は太祖の4番目の正妃である出身ので、太祖が崩御した際に殉死を命じられている。ハーン位を継いだ異母兄の太宗ホンタイジの下でモンゴルのチャハル部を討つことに功績を挙げ、族内の実力者となった。 崇徳8年(1643年)に太宗が崩御すると皇位をめぐって、ドルゴンおよびその同腹の兄弟である英郡王と豫郡王の一派と、太宗の長男の粛親王ホーゲを支持する一派に分かれて対立した。結局、清が二分することを避けるためにドルゴン・ホーゲ双方が皇位に就かず、太宗の第9子であるフリンが6歳で即位した(順治帝)。順治年間初期にドルゴンは摂政王として実権を握り、ホーゲら政敵を粛清して権勢をふるった。 翌順治元年(1644年)に明が順の李自成によって滅ぼされると、対清の最前線である山海関の守将であった呉三桂は清に対して、李自成を討つための援軍を求めた。これに応えたドルゴンは、自分と兄弟たちの支配下にある軍と皇帝直属軍を率いて南下し、順軍を破った。順軍が敗走した後に北京に入城した清軍は、自殺した明の崇禎帝を厚く弔い、減税・特赦を行うなど明の遺民の心情を慰める一方で、満洲族の風習である辮髪を漢民族に強制し、「髪を留める者(頭を剃らない)は首を留めず」と言われるような苛烈な政策で支配を固めた。順治5年(1648年)、皇父摂政王と称された。順治7年(1650年)に狩猟中に死去した。追尊して懋徳修道広業定功安民立政誠敬義皇帝(Erdemu be mutebufi,doro be dasaha,gurun be badarambufi,gung be mutebuhe,irgen be elhe obuha,dasan be ilibuha,akdun ginggun,jurgangga hūwangdi)と諡され、成宗の廟号を与えられた。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ドルゴン」の詳細全文を読む
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