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ドロシー・フィリップス : ウィキペディア日本語版
ドロシー・フィリップス

ドロシー・フィリップス(, 1882年10月22日 - 1980年3月1日)は、アメリカ合衆国女優である〔Dorothy Phillips, Internet Movie Database , 2010年6月7日閲覧。〕。出生名はメアリー・グウェンドリン・ストリブル()。
== 人物・来歴 ==
1882年(明治15年)10月22日メリーランド州ボルチモアに生まれる〔。
最初のキャリアは舞台女優であった〔。満29歳を迎える1911年(明治44年)、エッサネイ・フィルム・マニュファクチャリング・カンパニー(エッサネイ・スタジオ)が製作する短篇映画 ''His Friend's Wife'' に出演したのが、もっとも古い映画への出演記録である〔。
1912年(明治45年)7月22日、6歳年少の俳優アレン・ホルバーと結婚する〔〔, 2010年6月7日閲覧。〕。1914年(大正3年)、インディペンデント・ムーヴィング・ピクチャーズに移籍する〔。
1915年(大正4年)、ユニヴァーサル・フィルム・マニュファクチュアリング・カンパニー(現在のユニバーサル・ピクチャーズ)に移籍、同社傘下のレックスが量産する短篇映画に多く出演する〔。1916年(大正5年)、同社傘下に設立されたブルーバード映画では、『無言の報酬』、『愛児の導き』、『モルガンの娘』、『二人の姉妹』、 ''The Flashlight'', 『人形の家』、『反抗の焰』、『心の錆』、 ''Triumph'', ''Bondage'', 『罪の報ひ』、『愛の復活』と、1918年(大正7年)まで主演しており〔、その多くは日本でも公開された〔『ブルーバード映画の記録』 : 製作・著・発行山中十志雄・塚田嘉信、1984年4月、p.60-63.〕。1920年(大正9年)に公開された『一度は凡ての女に』を最後に、同作を監督した夫ホルバーとともにユニヴァーサルを退社〔、製作会社「アレン・ホルバー・ピクチャーズ」を設立する〔〔, 2010年6月7日閲覧。〕。
「アレン・ホルバー・ピクチャーズ」では、1921年(大正10年)から『男・女・結婚』、『颱風の娘』、『雪国秘話』と年1作を製作、夫ホルバー監督し、フィリップスが主演したが、1923年(大正12年)4月16日公開の『雪国秘話』を最後に活動を停止している〔〔。同年11月20日、夫ホルバーが満35歳で死去する〔。以降、さまざまな会社をわたり歩くこととなる〔。トーキー以降も映画に出演を続け、ほとんどがクレジットされない端役であったが、第二次世界大戦後の1956年(昭和31年)の『灰色の服を着た男』や、1962年(昭和37年)の『リバティ・バランスを射った男』にも顔を出している〔。満80歳で出演した『リバティ・バランスを射った男』をもって引退した〔。
1980年(昭和55年)3月1日カリフォルニア州ロサンゼルス市ウッドランド・ヒルズ肺炎により死去した〔。満97歳没。同市内のハリウッド・フォーエヴァー墓地に眠る〔Dorothy Phillips, Find A Grave , 2010年6月7日閲覧。〕。映画産業への貢献によりハリウッド大通り6358番地にハリウッド・ウォーク・オブ・フェームの星を刻む〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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