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ドー・ムオイ(, 漢字: 杜𨒒, 1917年2月2日 - )は、ベトナムの政治家。第3代ベトナム社会主義共和国首相や第4代ベトナム共産党中央委員会書記長を務めた。 == 経歴 == ドー・ムオイは1917年、ハノイの農家に生まれた。漆職人や左官をしたという〔坪井(1994年)、174ページ〕。1939年、インドシナ共産党に加入。1941年、フランス植民地当局に逮捕され、禁固10年の判決を受けるが、1945年に脱獄〔坪井(1994年)、174ページ〕。 その後、ハドン省党委員会書記、ハナム省党委員会書記、ナムディン省主席兼党委員会書記、第3連区党委員会委員兼ニンビン省党委員会書記を歴任。1952年、ベトナム労働党第2回党大会において党中央委員候補に選出。1955年、ハイフォン市党委員会書記兼軍政委員会主席に任命。同年3月、党中央委員に昇格した〔第2期党中央執行委員会(1951-1960) 〕。 1958年4月、ファム・ヴァン・ドン内閣の商業相に任命〔拡大政府(第1期国会第5-10回会議) 〕。1960年9月の第3回党大会において中央委員に再選出〔第3期党中央執行委員会(1960-1971年) 〕。1961年1月、商業相を解任〔第2期国会期政府(1960-1964年) 〕。1967年から1968年、国家物価委員会主任、政府監察団団長。1969年から1973年、副首相兼国家基本建設委員会主任。1973年6月14日から1976年、副首相兼建設相。 1976年、南北統一後も、引き続き政府副首相を務める。同年のベトナム共産党第4回党大会において党政治局員候補に選出〔第4期党中央執行委員会(1976–1982) 〕。1978年1月20日、私営商工業改造委員会委員長を兼務し、南部における工場や商店の国有化・集団化を指揮した〔木村(2004年)、128-129ページ〕〔木村(1994年)、62ページ。それまでの商工業責任者はグエン・ヴァン・リン政治局員であったが、彼のやり方は手ぬるいと判断された(62ページ)らしい。〕。 1981年、第7期第1回国会で、閣僚評議会副議長(副首相)。1982年3月、第5回党大会において、政治局員に選出。政治局序列第4位。1983年9月、国家エネルギー委員会委員長を兼務。 1988年6月、ファム・フンの急逝による後継争いでヴォー・ヴァン・キエットに競り勝ち、第8期第3回国会において閣僚評議会議長(首相)に選出。 1991年6月27日、第7回党大会において、改革派のグエン・ヴァン・リンに代わり、ベトナム共産党中央委員会書記長に選出。北部の保守派、特に軍に対して声望があり、また調整型の人物であることから、改革派も受け入れられたことが選出の理由とされる〔坪井(1994年)、175-177ページ〕。 1992年7月、第9期国会議員選挙において、ハノイ1区からの立候補で当選。しかし、得票率は80.29%で、必ずしも人気は高くなかった〔村野(1992年)、193ページ〕〔「第9期国会議員選挙(1992年7月19日)結果」(参考資料5)『アジア動向年報』、212ページ〕 カンボジア和平協定調印から2週間後の11月15日、高級代表団を率いて訪中し、中国の最高首脳と会談して中越の国交正常化を確認した〔木村(2002年)、4ページ〕。 1996年6月、第8回党大会において、書記長に再選出。 1997年12月29日、第8期党中央委員会第4回総会において書記長を退き、レ・ドゥック・アイン、ヴォー・ヴァン・キエットとともに、党中央委員会顧問に就任。2001年4月、第9回党大会において党顧問職が廃止され、引退した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ドー・ムオイ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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