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ナイアガラ音頭 : ウィキペディア日本語版
ナイアガラ音頭[ないあがらおんど]

ナイアガラ音頭」(ナイアガラおんど)は、1976年6月1日に発売された大瀧詠一プロデュースによる、布谷文夫(クレジットは“布谷文夫 with ナイアガラ社中”名義)のシングル
== 解説 ==
「ナイアガラ音頭」はアルバム『NIAGARA TRIANGLE Vol.1』〔大滝詠一山下達郎伊藤銀次NIAGARA TRIANGLE Vol.11976年3月25日発売 NIAGARACOLUMBIA LP:LQ-7001〕からのリカット・シングル。
1975年にスタートしたナイアガラ・レーベルで当時、レコード制作と並んでもう一つの基幹活動となっていたラジオ番組『ゴー・ゴー・ナイアガラ』が同年6月9日からスタートし、大滝が“番組のゲストで最初に呼ぶのはこの二人と決めていた”という伊藤銀次山下達郎を迎えてのナイアガラ特集が第16回(9月29日)第17回(10月6日)に放送された。この番組がきっかけとなり、終了後にアルバム『ティーンエイジ・トライアングル』〔James Darren, Shelley Fabares, Paul Petersen『Teenage Triangle』 1963年 Colpix LP-444, 『More Teenage Triangle』 1964年 Colpix LP-468〕をヒントにした3人による“トライアングル企画”が大滝から二人にプレゼンされた。大滝にとっては新会社“ザ・ナイアガラ・エンタープライズ”を作り、新たに日本コロムビアと契約するので、その第一弾として1973年からここまでの三人の活動を記録しておきたいという思いからだった。
10月、この“ナイアガラ特集”を聞いたリスナー“くりーむそーだ水”(ペンネーム)から番組宛にハガキが届き、それが「ナイアガラ音頭」のネタ元になった。大滝は「『トライアングル』は75年の11月から(録音が)始まってるんだけど、75年の10月かな、くりーむそーだ水さんからハガキが来たのは。『ゴー・ゴー・ナイアガラ』にね。そのハガキに『ゴー・ゴー・ナイアガラ』のテーマ曲を変えろ、今のはダサいからと。『欽ちゃんのドーンとやってみよう!』が流行ってたんで、『銀ちゃんのドーンとやってみよう!』にしてディスク・ジョッキーは大滝から伊藤銀次に変えろって。で、向こう(『欽ドン!』)が<ニッコリ音頭>だから<ナイアガラ音頭>にしたらどうかって。この<ナイアガラ音頭>は面白いっていうんで、そのハガキはためといて、作ってから(ラジオで)ハガキを読もうと。で、ちゃんとハガキを読んだ日にかけてるわけだよね。作ったぞ、みたいなことで。でも本人は聞いてなかったって後で言ったんだけど。あんまり長いこと読まないからハガキがボツになったんだろうと思ったらしいけど」「<ナイアガラ音頭>を大きくやろうとかいうことでもなく。アルバムがどうなるかなんて全貌はわかるはずのない時期ですよ、ハガキが来たのは」という。
ヴォーカルを担当したのはブルース・クリエイション - DEWの元メンバーで、1973年に大瀧プロデュース、“ココナツ・バンク”の演奏によるアルバム『悲しき夏バテ』〔布谷文夫悲しき夏バテ ⁄ 布谷文夫I1973年11月21日発売 POLYDOR LP:MR-5037〕をリリースした布谷文夫。大滝によれば1967年夏、高校卒業後上京して一週間以内に布谷と出会ったという。「僕は岩手県内でも転々としていたのですが、何度目かの転校の時に知り合った人間がいて、彼がクレージーキャッツのソノシートを持っていたということで気が合って友達になった。それから二、三年して僕がギターを覚え始めたときに、彼が詞を書いて、僕がスリー・コードで曲を付けた。これが最初のオリジナル曲ですが、このときの作詞家が後に布谷さんの<冷たい女>の作詞をした千葉信行で、僕よりも前に上京していた彼に誘われて、彼の先輩がいたとあるGSバンドの練習に遊びに行ったんです。そこへリード・ヴォーカルが来るからちょっと待ってろと言われて、布谷さんを紹介されたわけです」という。布谷は当時専修大学に通う大学生で1966年3月にバンド“東京R&Bファイブ”を結成、1967年3月に解散していた。大滝は「なんかミック・ジャガーが好きだって言って<ハート・オブ・ストーン>ばっかり唄ってたな。僕はそれを見ていただけだったんだけど、そしたら急に“ドラムやるんだって?”とか言われて。そこのドラマーが上手くなくてクビにするからって。別に正式メンバーになったわけじゃないけど、そういうんで交友関係ができて、それが後に“タブー”というバンドになる」〔バンド名の由来は、名前がなくて何にしようって言っていた時たまたまパチンコ屋かなにかで「タブー」が流れていたからだという。〕「布谷は結構その頃エキストラのヴォーカルをやってた。GSブームの頃だから仕事が結構あったんだよね、学生でありながらそういうバイトをしていたわけ。ジャガーズの弟バンドっていうのにトラで入って歌唄ってたんだよ。そしたらそこに洪栄龍がいたんだよね。なぜか<マドモアゼル・ブルース>を弾いていた。そこのバンドに新しいギタリストが入ったって。それが高校生の竹田和夫だった。それがだんだんブルース・クリエイションになっていく。そのバンドにオレが飛び入りするようになって、で何を唄うかっていうと<500マイル>しかなくて、それをプレスリー調に唄うんだ。たしか洪栄龍が知っている曲が<500マイル>しかなかったからだと思ったけどね」「その前にタブーを解散する時に布谷に“お前はやっぱり自分の好きなのをやるべきだ”って言われてて、“絶対お前とぴったり合う人間がいるから紹介する”って言われて中田佳彦の電話番号を聞いて、会って話をしたら本当にぴったりだった。で、中田との友達づきあいが始まるわけ。中田は立教大学に行ってて社会学部で細野晴臣と同じクラスだったの。中田に連れられて細野ん家に行った。上京して一年しないうちに布谷、中田、細野と行きついた」という。
レコーディングは布谷のヴォーカルが先でその後、純邦楽側と洋楽側とが別々に録音されているが、大滝によれば「<ナイアガラ音頭>はね、ああいう風になるとは出来上がってみるまでわからなかったわけですよ。最初、リズム・ボックスと邦楽(のお囃子)だけでやってたからね。でもリズム・ボックスは聞かせてない。歌だけかな? 歌とピアノで邦楽の人を録音してるの。ドラムその他のロック(・サイドの演奏)はリズム・ボックスと歌だけ聞いてやってもらって」〔とし、それらを初めてミックスする時、スタジオに居合わせた山下は「今世紀最高の傑作だ」と叫んだという。
当初、『NIAGARA TRIANGLE Vol.1』〔からのシングルは山下、伊藤、大滝による「幸せにさよなら」〔ナイアガラ・トライアングル「幸せにさよなら」 1976年4月1日発売 NIAGARA ⁄ COLUMBIA EP:LK-2-E〕だけの予定だったが、コロムビアの営業サイドから出されたシングル・カットの要請を受け、オリジナル・ヴァージョンのオケのピッチを上げ、坂本龍一クラビネットをダビングし、ヴォーカルも録り直されている“ディスコ・ヴァージョン”として、シングル・ヴァージョンが制作された。大滝によれば「『ナイアガラ・トライアングル』は結構好評で、コロムビア移籍第一弾だったでしょ? コロムビアもかなり力を入れてて。予想外なことに<ナイアガラ音頭>にスポットが当たってしまった。出してみたら、最初の予想とはまるで別で、新宿のコタニ(レコード店)のところから行列をして、それをテレビのスポットで打ったり。76年には(<ナイアガラ音頭>を歌った)布谷文夫のテレビ出演も2本あって。NETと「ぎんざNOW!」と。テレビ展開はあるわ、シングル切るわで。コロムビア側はプロモーションに関してはね、ずいぶんやったんですよ。とにかくナイアガラ・レーベルを押していくんだということで、『トライアングル』で口火を切って。糸居五郎さんがニッポン放送で<ナイアガラ音頭>がかかったときにすぐ電話して、これは誰だって聞いたんだって。これは面白いってことで、糸居五郎さんが<ナイアガラ音頭>をかけたんだからね。それくらいの話題になったんだよね」〔『レコード・コレクターズ』2006 No.10(ミュージック・マガジン)pp.76-83 インタビュー大滝詠一(聞き手=湯浅学)、2006年10月1日発行〕という。後に大瀧と対談した糸居はシングル・ヴァージョンに追加された“オンドー”がすごくいいとし、「ずっと昔、昭和のはじめに、中野忠晴とコロムビア・リズム・ボーイズが<山寺の和尚さん>を、当時としてはモダンなビートでもってやってたわけです。それから<地球の上に朝がきた>の川田晴久。あれも、日本に昔からある浪花節の調子を、モダンにしたんですね。こういったものを何十年か経って現代風に置き換えたのが<ナイアガラ音頭>。そんな感じですね」「ですから、僕の経験から言うと、あれはヒットしますよ」と話していた。その“オンドー”コーラスは、95年盤の大滝の“ボーナス・トラック解説”では、布谷と“たまたまスタジオにいた”当時オールナイトニッポン第二部のDJ及川伸一とされているが、2006年盤では、“スタジオにたまたま応援に来ていた”PMPの川本晴義と及川が参加と記載されている〔『NIAGARA TRIANGLE Vol.1』CD.1995年盤(1995年3月24日発売 NIAGARA ⁄ Sony Records CD:SRCL-3217)解説〕。
「あなたが唄うナイアガラ音頭」は「ナイアガラ音頭」のイントロに、『NIAGARA TRIANGLE Vol.1』〔収録曲「ココナツ・ホリデイ'76」で使われた“お囃子”が付けられた、モノ・ミックスによるカラオケ。B面にA面曲のカラオケを収録する形態は後に一般的となるが、このときはB面を作る余裕も時間もなかったためだという〔。また、コロムビアによるルーファスとのカップリング・シングル〔「ナイアガラ音頭 –Ondo De Hustle– / 布谷文夫 ⁄ DANCE WITH ME / RUFAS」 1976年6月発売 COLUMBIA EP:TD-1018〕も制作された。
ジャケットは中見開きで、歌詞と振り付けのほか同年6月20日ニッポン放送での“「ナイアガラ音頭」のど自慢大会開催のお知らせ”が掲載されていた〔当日は『ゴー・ゴー・ナイアガラ』のリスナーだったサエキけんぞうも出場し、3位となった。〕。
このシングルも「幸せにさよなら」〔同様、両面モノ・ミックス。両曲とも30周年記念盤『NIAGARA TRIANGLE Vol.1』〔『NIAGARA TRIANGLE Vol.1 30th Anniversary2006年3月21日発売 NIAGARA ⁄ Sony Music Records CD:SRCL-5005〕にボーナス・トラックで収録された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ナイアガラ音頭」の詳細全文を読む



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