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ナゴルノ・カラバフ(, , )は、アゼルバイジャンの西部にある地域。「」と呼ばれる地域中部の山岳地帯に当たる。アルメニア人が多く居住しており、隣国アルメニアとアゼルバイジャンの対立の火種となっている。「ナゴルノ・カラバフ」という呼称は、カラバフ地方の東部山岳地方に対してロシア語で「ナゴールヌィ・カラバフ」(, 高地カラバフ)と名付けられたことが元になっており、現地のアルメニア語やアゼルバイジャン語には基づかない。また「アルツァフ」と呼ばれることがあるが、これはかつてナゴルノ・カラバフを治めていたアルメニア人王国に由来する。 == 歴史 == ナゴルノ・カラバフを含むカラバフは、古くからアゼルバイジャン人とアルメニア人による領土紛争の舞台となっており、ロシア帝国崩壊後に両民族がアルメニア第一共和国とアゼルバイジャン民主共和国を建国すると遂には軍事衝突()にまで発展した。その後両者は赤軍の圧力によって1920年末までに共産化し、ソビエト連邦の構成体であるアルメニア社会主義ソビエト共和国とアゼルバイジャン社会主義ソビエト共和国になった。だが、アルメニアがソ連構成体となる時にロシア・ソビエト連邦社会主義共和国がナゴルノ・カラバフとシュニク地方をアゼルバイジャンに割譲することを提案すると、追放されたアルメニア革命連盟が反ボリシェヴィキ運動を激化させ、1921年4月26日にはナゴルノ・カラバフを含むアルメニア南部において山岳アルメニア共和国の独立を宣言したが、赤軍との熾烈な戦闘の末に1921年7月13日に消滅した。 帰属が確定したのは共産化の翌年である1921年7月4日のことで、現地のボリシェヴィキによる国境画定交渉によってナゴルノ・カラバフはアルメニア領とされた。しかしアゼルバイジャン側は猛反発し、翌日にはアゼルバイジャンへの帰属決定として覆されてしまった。 こうしてアゼルバイジャン領となったナゴルノ・カラバフのアルメニア人には自治権が与えられることとなり、1923年7月7日にアゼルバイジャン内の自治州としてナゴルノ・カラバフ自治州が設置された。 自治州成立後もアルメニア人はソビエト連邦の政局が変わるたびにアルメニアへの編入を求めた。やがて1985年にミハイル・ゴルバチョフがソ連邦共産党書記長に就任、ペレストロイカなどの自由化政策が開始されるとアルメニアへの編入運動はいっそう大きくなり、やがてアルメニアとアゼルバイジャンは衝突し始め、ナゴルノ・カラバフ戦争にまで発展。ソ連崩壊後はアルメニアへの合流を求めてナゴルノ・カラバフ自治州はナゴルノ・カラバフ共和国(アルツァフ共和国)として1991年9月2日に独立宣言を発し、現在も独立状態を保っている。 しかしアブハジア、南オセチア、沿ドニエストル以外に独立を承認している国はなく、しかも全て一部・未承認国家であるため、あくまで事実上独立した地域である。承認を受けた3か国とは民主主義と民族の権利のための共同体を結成している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ナゴルノ・カラバフ」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Nagorno-Karabakh Republic 」があります。 スポンサード リンク
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